ゆるしとは、
初めから存在しないものを見過ごすことです。
ゆるしとは、
私たち『神の子』の心(マインド)に誤って生み出された自我がつくったものを訂正することです。
私たちのマインドが見ているこの夢には、『神』がつくらなかったもので溢れています。
その自我がつくりだしたものを見て、触れて、私たちは一喜一憂しているわけです。
すべては、マインドの投影です。
私たちが【分離】を信じたために、
【分離を象徴したもの】、
【分離を象徴した出来事】
がこの世界に投影されています。
今、私たちが見ているものは私たちのマインドの中にあるものであり、
正確に言うとマインドにあると信じたものです。
あなたが見ているもの、
あなたが経験すること、
それらはすべてあなたのマインドにあったものです。
あなたが今、混乱や対立を見ているのであれば、あなたのマインドに混乱や対立があるということです。
私たちは自分のマインドで誤って生み出した自我を、自分で生み出したのではなく、
「どこか他所からやってきた」、
あるいは「醜くて恐ろしいもののすべては自分の外側で行われている」
と信じることにして、マインドをシャットアウトし、真実から目を背けてしまいました。
自我は、私たちのマインドに秘かに持ち続けている【罪悪感】をエサにして、
私たちを困惑させ、
私たちを失望させ、
私たちを肉体であると信じ込ませ、
幻想世界にしかないものに価値があると信じ込ませ、
それに執着させることに躍起になっています。
そうすることでこの世界を維持できると自我は信じているからです。
すべての時間は同時につくられ、
同時に消えました。
(しかし、時間という幻想の中ではその一瞬は何億年という途方もない長さです)
なぜなら私たちを創造した『神』は、
自らの子が、自らと分離してしまったと信じて夢の中で苦しむのを放っておかなかったからです。
夢を真実と信じ、夢の中に埋没している私たちが急に目覚めて混乱しないように、
ゆっくりと時間をかけ、
細心の注意をはらって、
私たちが実在に目を向けるように働きかけているのです。
私たちが夢から脱出するには、
『神』と私たちは一度も分離しなかったこと、
よって私たちが秘かに持ち続けている罪悪感そのものは、私たちのマインドに初めから存在してない幻想であることを知ること、
そこから始めなくてはなりません。
そのうえで、罪悪感をエサにして自我がつくりだすものすべてを見過ごしてゆく。
それが『ゆるすこと』になります。
自我がつくりだしたものをよく見てください。
すべてが一つで、すべてが調和した存在の『神』が、争いや葛藤を創り出すことなどあり得ないのです。
それらは初めから存在しない幻想であることを前提にして、再び目の前にあるものを見つめなおすのです。
『愛しか持たない神』が、
「愛すべきもの」と「愛せないもの」の二つに分けることはないのです。
その『神』の性質を完璧にコピーされた私たちが、
誰かに愛されなかったり、
誰かを愛せなかったりすることもあり得ないのです。
自我は『神』から離れて自由に創造したという罪悪感によって生まれました。
自我は『神』から離れてしまったという怖れによって生まれました。
私たちがやるべきことは、
自我がつくった出来事、
自我が見せている対立、
自我が煽っている憎しみ、孤独感、
それらすべてを一つひとつゆるしていくこと、それだけです。
自我が見せるものは、『神の世界』とはすべてが真逆のこの世界の実在を信じさせるためにあります。
しかし、その自我が見せるものに一切騙されない存在がいます。
それが聖霊(ハイヤーセルフ)であり、キリストです。
ここでいうキリストとは、本当の私たちであるスピリットの象徴として使われる呼称にすぎません。
キリストとは、
僕であり、
あなたであり、
すべての『神の子』の真実の姿をいいます。
私たちは自我がつくるものを見て、体験して、自我の思惑通りに反応します。
自我がつくるものを見るたびに怒り、悲しみ、不安がり、
優越感や劣等感を抱き、
同じ『神の子』を怖れ、
分離を信じて孤独感に苛まれます。
だから、私たちは自我の思惑通りに反応するのをやめなくてはなりません。
自我の言いなりにならず、
自分の代わりに、自我の見せるものにけっして騙されることのない存在に頼るしかありません。
自分の代わりに目の前のものを判断してもらうしかありません。
それが聖霊(ハイヤーマインド)であり、
キリスト(アセンデッドマスターすべて)であり、
大天使といった、
【真実の神霊界】にいる存在たちです。
いるという表現は適当ではないかもしれません。
全ては最初から一体の存在なのですから。
代わりにそれを見て、
代わりにそれを判断して、
どのようにそれに反応したらよいのか、
すべて教えてもらうしかありません。
幻想を『実在の存在の視点』で見て、
私たちも『実在の存在』として反応を変えるしかないのです。
目の前のものに自分で価値判断をするのをやめる。
目の前のものをありのままに見つめる。
そして受け入れる。
受け入れられないのは「それが何かしらの意味をもっている」と信じているからです。
この世界にあるものに最初から意味をもっているものは一つたりともありません。
すべては幻想です。
すべてはマインドの象徴です。
目の前にあるものそれ自体は空虚な代物です。
(だから適当に扱っていいわけではありませんが)
そこに何かしらの意味を与えているのは肉体のあなた(フィジカルマインド)であり、
あなた自身が与えた意味に、
あなた自身が一喜一憂しているにすぎないのです。
目の前のものに対し、
どのような見方をすれば、あなたが本当に幸せでいられるのか、
それを知っている聖霊に逐一尋ねるしか道はありません。
私たちは実は何にも知らないのです。
自我のことも、実在の自分のことも、そして私たちがいちばん知りたいと思う『神』のことも。。。
何も知らない自分が、
何をどうしたらよいのかまるで知らない自分が、
たった一人で自我に戦いを挑んでも勝ち目はないのです。
意味をつくるのをやめる。
意味を求めるのをやめる。
自意識を完全に脇に追いやって、
『神』と肉体の私たちの橋渡しをしている聖霊の視点に依存するしかありません。
自我は、実在と正反対の視点で見るように私たちをそそのかします。
聖霊は、それは意味をもっていない幻想であることを思い出させ、それを完全に反転させて見るように伝えます。
その聖霊の視点に従って、
自分の反応を180度変えたとき、それを受け入れ、それをゆるせたことになります。
そのとき自我がつくったものが一つ消えるのです。
消えるとは、それが肉体の自分に影響を及ぼさなくなるという意味です。
それが修正です。
それが私たちが生まれてくる理由です。
すべてを修正するためにくりかえし幻想の世界に戻るのです。
何かをゆるすと、
同時に過去と未来の自分の人生で、自我がつくった同じものが姿を消します。
マインドでは一度変えたもの、一度修正したものは、再び自分の人生に現れることはありません。
『ゆるし』に時間の制限はありません。時間は幻想ですから。
一つゆるすのに何年も、何十年もかかったとしても、ゆるせた時点で、それは未来と過去を同時に修正してくれます。
(その修正は聖霊が私たちの代わりにやってくれます)
ひたすら消してゆくだけです。
自我がつくったものは修正すれば消えていくだけです。
消えたそばから増えてゆくことはありません。
これがレッスンなのです。
一度、クリアしたレッスンをくり返す必要はまったくないのです。
クリアしたレッスンは、最初から存在しなかったものとして黙って姿を消すだけです。
自我がつくったものを、一つずつ否定してゆく。
それは初めから起きていない。
相手は初めから何もしていない。
起きたこと、相手がしたことを、
「これは現実だけれど頑張ってゆるそう」と思っても絶対にゆるせません。
現実と信じながら、それをゆるすことは極めて困難です。
否定できない。
葛藤する。
自分自身と戦う。
相手と戦う。
戦えば戦うほど、自我は喜んで強くなる。
消し続け、修正を続け、最後の最後には何一つ残らなくなったとき、ようやく私たちの夢は終わるのです。
そこから、幻想を見ていたことを完全に忘れ、実在の世界だけを見ます。
本当の喜びと幸せがある『神』が待つ世界に帰ります。
自分がスピリチュアルな学びを深め、成長すればするほど、
『本当の自分』に近づけば近づくほど、
自我のすることはどんどんえげつなくなります。
自我は自分の存在意義を脅かされ、次から次に私たちをこの世界に引きとめようと必死に抵抗します。
自分がまだゆるしたことがないもの、
自分にとってより辛い出来事、より予想外のことをぶつけてきます。
レッスンは、【個】としてのレッスンだけじゃありません。
日本人全体としてのレッスンがあり、
地球人全体としてのレッスンがあり、
宇宙全体としてのレッスンもあります。
しかし、あなたがするべきことは、自分の目の前に来るものをひたすら「ゆるす」だけです。
毎日の生活の中で、自分が直接関わることだけじゃなく、
自分の周囲で起こることも、
テレビやネットで見聞きすることも、
すべてを一つひとつゆるしていくだけです。
あなたが見ているもの、あなたが聞くものは、どこかの誰かがつくったものではありません。
あなたがつくったものです。
つくったのは肉体意識のあなたではありません。
肉体意識があるという夢をつくった最初のマインド
です。
あなたが望むものであろうが、
望まないものであろうが、
マインドのあなたが「こうであると信じた世界」を、肉体意識であらためて見せられているのです。
『神』に向かって手を伸ばすのです。
『神』も私たちに向かって手を伸ばしています。
でも『神』は私たちの方からも手を伸ばしなさいと伝えています。
成長すればするほど自我の抵抗を受けます。
しかし、以前の自分より成長していれば、
以前より『本当の自分』に近づいていれば、
ゆるすのもより早く、より簡単に、より楽になってくるのです。
そして最終的には、
自我が何をぶつけてきても自動的にゆるせるようになるのです。
自動的にゆるせる……それは夢の中にいながら完全に夢から覚醒した状態になった時であり、
当然僕を含めた多くの人にとって、そうなれるのはまだまだ先の話です。
僕だって何か起きる度にいちいち驚き、いちいちショックを受け、いちいち落ち込んだりして毎日を生きています。
でも、そんなときはいつも聖霊の声が僕に語りかけてきます。
「これは幻想です。本当は何も起きていません」
「あなたは悪くありません。けれど相手の人も悪くありません」
「これは災難ではなく、ゆるすチャンスです」
ショックを受けて、嘆いてみる……けれど『ゆるしのレッスン』をすればするほど、それを引きずる時間はどんどん短くなってゆく。。。
何年経ってもなかなかゆるせないこともあります。
そういう自分にとって極めて困難に思えるレッスンほど、様々な過去生や並行生にまたがって繰り返し経験してきたレッスンなのでしょう。
自我がつくったものがなんであれ、一度ゆるしたものはくり返しません。
けど時に同じことがくり返しているように見えることがあります。
「なんだ、まだ自分はゆるせてなかったのか」と思うかもしれません。
同じものを見たあなたが、以前と同じようにネガティブな反応をしているなら、
それをまだゆるせてなかったのかもしれません。
しかし、心が前と違う反応ができているなら、
前とは違った行動パターンで返せるなら、
その出来事は僕の経験でいうと、せいぜい2、3回くり返して終わってくれます。
僕はこれを「お試し期間」と呼んでいます。
自分が見ているものは、自分のマインドの投影です。
その出来事を本当にゆるせたのかどうか、自分で自分を試しているのだと解釈しています。
これをクリアして、本当にそれはもう自分の人生では起きなくなるのです。
消えてしまうのです。
本当にそれで「さようなら」です。