スピリチュアル・マスターと呼ばれる霊的進化を遂げている人でも病気になることがあります。
そして病気が治らないまま死んでいくこともあります。
マスターと呼ばれる人なら他の人たちに比べてマインドは癒やされているはず。
「マインドが癒されているはずの人がどうして病気が治らないの?」と疑問に思う人もいると思います。
「マスターが病気を治せないのなら、マインドが癒やされることと病気が治癒するかどうかは必ずしも一致しないんじゃないか?」
そう誤解してしまうことがあります。
そんなふうに思う人はこんなふうに捉えているのかもしれません。
① 偶然性で人が死ぬことがある
② マスターと呼ばれる人の人生にはもうレッスンは残っていない
③ マスターと呼ばれる人でも癌や難病と呼ばれる重病を治すのは困難である
(ここでいうマスターというのは、自分の存在を誇張した自称マスターみたいな人でなく、真に霊的進歩を遂げている人のことです)
死は偶然に起こるわけではないことは先に説明しました。
すでにこの人生ではもう(並行生の一つという意味)可能なレッスンは残っていないというタイミングで死を迎えます。
次の転生(生まれ変わり)のために、違う人生で違うレッスンをするために肉体を離れるという言い方もできます。
そして、もう何一つレッスンが残っていないほど進歩しているのなら、これ以上転生をすることはありません。
永遠に実在の世界だけで生き続けるでしょう。
もう二度と幻想の世界には戻りません。
マスターと呼ばれる人でも病気になるのは、
進歩したマスターであっても、その病気そのものがレッスンだったということです。
マスターと呼ばれる人なら、
もう何もレッスンをする必要がないとか、完璧であるとかイメージしがちですが、
どんなに進歩していても肉体でいるあいだは完璧ではないのです。
肉体でいるあいだは、まだ“肉体の中にいるという夢の中”にいるということです。
まだ肉体という夢に居続けているということは、まだ何かしらのレッスンが残っているということです。
物理的な死の原因が病気であったなら、
マスターにとってその病気の経験をゆるしてみせることが今生での最後のレッスンだったのです。
死に失敗はありません。
アクシデントとして死ぬことはありません。
マインドが完全に癒されている者が病気になることはありません。
マインドが完全に癒された者の病気が治らないことはありません。
マインドが完全に癒やされたにも関わらず、
それでも病気によって死を迎える場合は、主に二つの理由があります。
【病気を死の手段としてしている場合】
病気で死を迎えたマスターは、
病気を治そうと試みたけれど治せずに死んでいくのではありません。
治す必要がなかったのです。
別のページ《死の手段》でも説明しましたが、人がレッスンを終えて肉体を脇に置くときは何らかの手段が必要になるのです。
それはマスターとて同じなのです。
今ここの地球よりもっと高い次元の世界であれば、病気という手段(病気というレッスン)そのものが不要なのですが、
マスターも今ここの世界にいるうちは、そういう罪悪感の象徴としてつくりだされた病気をゆるしてみせねばならないのです。
もう一つの理由として考えられるのは、
肉体が病気のままであっても、心の中は完全に安らいでいることが可能であることをメッセージとして体現してみせるというものです。
他の神の子たちに教えることを目的とし、
教師として自らの身をもって実践してみせるのです。
痛みと安らぎは両立することはできません。
私たちは二つの相反する感覚を同時に感じることはできないようになっています。
肉体の痛みを感じながら、心から安らぎを感じることはできるでしょうか?
答えは「NO」です。
苦しみながら安らぐことはできません。
病気や怪我で痛みや苦しみを経験したことがある人ならわかるはずです。
痛みが襲ってきたとき、
苦しみにあえいでいるとき、
同時に安らぎを感じることはできないはずです。
本当に心が安らいでいるときは痛みは消えています。
痛みを感じているときは安らぎは消えています。
これはパラドックスです。
私たちは矛盾している二つのものに同時に意識を向けることはできないのです。
完全にマインドが癒やされていながら死ぬための手段として病気を選んだマスターは、
あるいは最後のレッスンとして病気を選んでいるマスターは、
(どちらも同じなのですが……)
自我としての自分ではなく、
完全に神に創造されたままの本当の自分に完全に意識を向けていられれば、
肉体は瀕死の状態であっても、
少しも痛みも苦しみも感じないでいることは可能だということを教えてくれるのです。
たとえ全身が癌に侵されていようとも笑っていられるんだってことを、生徒である私たちに身をもって示してくれるのです。
マインドが完全に癒やされている状態は言い方を変えれば、
自分は肉体ではなくスピリット(霊)であるという真実に完全に信を置いていることです。
『神』という存在と、
『神の子』としての自分や、あらゆる人たちを完全に信頼している状態です。
一片の疑いもない状態です。
痛みというものは自分は霊ではなく肉体であるという信念であり、
自らの中に償えない罪があるという観念の投影です。
痛みは自我(エゴ)そのものなのです。
自我を完全に捨てている状態では、痛みを感じることは不可能なのです。
痛みを感じるときは、本当の自分を忘れているときです。
痛みを感じるときは、『神』は今ここにいないと信じているときです。
痛みを感じるときは、「自分はもう少し肉体のままでいたい」という自我を信頼しているときなのです。
これは聖書には書かれていませんが、
磔刑になったイエス・キリストは、磔刑になりながらも実はまったく痛みを感じていなかったといいます。
激痛で顔を歪めながら神に召されたわけではなく、
肉体的にも精神的にも何の痛みも苦しみも感じることなく微笑みをたたえながら昇天されたとのことです。
肉体は幻影であり、実在しない。
キリストは昇天した後、
私たちという存在が不死の『神の子』であることを知らしめるために、
再び肉体という形を携えて弟子の前に復活してみせました。
すべての転生を終えて、この世界を卒業できたマスターたちは(完全に悟った人たちは)、
どんなに重い病に侵されていても、痛みを感じることなく、微笑みをたたえながら死んでいけるのです。