【病気と死⑥】病を治したいと思うのは間違いではありませんⅠ


 

 

こんなふうに考えてしまう場合があります。

 

「病気の原因はマインド(自分の内側)にある。病気を治そうとすること=自分の外側を変えること。

それならば薬を飲んだり、ヒーラーからヒーリングを受けたりすることは、自分の外側で自分の病気を治そうという試みだから間違いではないのか……」

 

 

内側を癒すために、内側を変えることが本当の癒しです。

 

ならば外側(自分の肉体も外側)を変えたいと考えるのは間違っているのではないか?

 

 

 

これはよくよく注意しなくてはなりません。

 

僕自身もこの概念に長く葛藤した経験があるのでよくわかります。

 

 

「外側にあるものを変えることで安らぎを得ることは間違い。あくまでも自分の内側(マインド)を変えることが真の安らぎにつながる」

 

 

特に奇跡のコース(奇跡講座)の学習者の中にこんなふうに捉えてしまう人がいたりします。

 

病気そのものは幻想なのだから、病気を治そうとすることは幻想に信を置いているんじゃないか。

 

 

“治したいという気持ち =   幻想を実在化している。病を現実化している”

 

 

確かに理屈としてはその通りでになるのですが、気をつけなくてはならないのは、

 

「病気を治したい」「肉体を楽にしたい」と思うこと、

 

実際に医学に頼ったり、肉体的治療に努力すること自体が間違っているわけではないということです。

 

 

 

病気の多くは身体的苦痛を伴います。

 

だからこそ自我は病気をつくりだしますし、病気を維持しようと懸命になります。

 

苦痛を感じているあいだは嫌でも「自分は肉体なのだ」と信じてしまうからです。

 

 

マインドに潜む自我の目的はただ一つ。

 

この幻想を永遠に維持していくことです。

 

 

 

私たちはスピリットです。

 

マインドの一部分で「自分は肉体である」という夢を見ているだけです。

 

 

そのような理屈からいえば、自分は肉体だと信じなくなれば病気は消えます。

 

しかし、それを簡単に信じられるならばもう肉体の中にいるという夢は見ていないでしょう。

 

 

 

夢を見ているあいだ、

 

幻想世界にいるあいだは、

 

どうしたって何らかの制限から逃れられません。

 

 

 

夢から完全に醒めて「自分は最初から完全である」と信じられないかぎり、物質的な制限(不完全さ)からは抜け出せません。

 

 

だんだんと目覚めていくにつれ制限からの影響が小さくなって、楽に生きていけるようにはなります。

 

しかし、制限から完全に脱する頃にはもうこの世界から解脱して肉体を離れているわけです。

 

 

 

 

病気を物理的に治療するか、しないのか、

 

病気を治したいと思うか、思わないのか、

 

それらに正解も不正解もありません。

 

 

 

大切なのは、

 

『自分はどちらを信じようとしているか』です。

 

 

肉体を持っていて病気をする自分が自分自身なのか、

 

本当は一度も病気になったことはないスピリットが本当の自己で、

 

今ここで肉体という夢を見ている自分は本当は完全な安全を保証されていると信じるのか。

 

 

生まれた時から根強く持ち続けてきた信念をいきなり変えることは困難です。

 

特に病気のように絶え間なく肉体的苦痛をつくりだすような幻想、

 

死への恐怖を思い起こさせる幻想ならなおさらです。

 

 

 

 

もし、病気を外側の力で(医学などで)治そうとすることが間違いならば、

 

お腹が減って何か食べたいと思うことも間違いってことになってしまいます。

 

空腹も幻想です。

 

本当は肉体ではないのに空腹であるという幻想を信じていることになります。

 

 

 

 

 

「寒いから厚着したい、暑いから薄着になりたい」

 

これも幻想を信じていること、自分の外側を変えようとすることなので間違いってことになってしまいます。

 

 

朝起きて髪の寝癖を直すことも間違いでしょうか。

 

太ってきたのでダイエットしたいと思うことはどうでしょうか。

 

 間違いと決めつけてしまうと、

日常生活で行うことのほとんどに罪悪感を持つようになってしまいます。

 

私たちは罪悪感を癒すために今ここを経験しているのに……です。

 

 

 

 

 

一番大切なことは、愛です。

 

僕が病気になるとき、

あるいは疲れが溜まってどうしようもないとき、

キリストや聖霊に尋ねたことがあります。

 

 

「なぜ、今こうなっているのですか?」と。

 

 

すぐに返ってきた答えはこうです。

 

 

 

 

「愛を忘れているからだ」

 

 

 

 

ここでいう『愛を忘れる』とは様々な意味を含んでいます。

 

自分自身は価値がないという思い、

 

自分の肉体に対する思いやりがない(ケアが不十分)、

 

そして、『神』は愛そのものであり、

 

その『神』が自らを延長して創造した『神の子である自分』もまた愛そのものであるということを忘れているということ

 

 

 

愛は疲れることはできない

 

愛は病気になることはできない

 

 

 

疲れるとか、

 

病気になれるという思いは、

 

自分は愛とは違う存在であるという思いから生まれるということです。

 

 

 

 

今置かれている物理的状況を変えたいと思っていいのです。

 

 

病気を治したいと思っていい、

 

「もっと健康に生きたい」と思っていいのです。

 

 

科学的な治療をしたっていいのです。

 

足が痛いと感じたら、真っ先に自分の足を擦ってあげてください。

 

痛みそのものは幻想であっても、それが愛です。

 

痛みを感じてないふりをするよりずっと良いです。

 

 

 

 

愛を忘れて体を壊したならば、

 

その愛を存分に発揮することで愛を思い出すしかありません。

 

 

 

 

他に愛を思い出すために必要なことは、まずは自分で判断することをやめることです。

 

 

寒かったらコートを着てもいい。

 

でも『寒い=不幸』ではありません。

 

 

 

暑かったらエアコンをつけたら良い。

 

でも『暑い=不運』でもありません。

 

 

 

大切なことは、今ここの自分の心の在り方です。

 

大切なことは、今この瞬間、自分は幸せなのかどうかです。

 

 

外側を変えても変えなくても、自分は幸せでいることはできます。

 

 

 

 

病気だから不幸を感じることはありません。

 

自分は不幸だと信じた瞬間、確かに不幸になるのでしょう。

 

 

 

肉体は不完全です。

 

しかし、心まで不完全だと思う必要はありません。

 

 

 

夢の中にいるからといって、現実ではないからといって、裸で街を歩くわけにはいきません(笑)

 

夢の中には夢の中のルールがあります。

 

それは幻想であることを自覚したまま、夢の中のルールに従うということです。

 

 

 

 

 

自分がつくっている夢であることを忘れなければ、夢の中で好きにしていいのです。

 

 

行きたい場所があれば行けばいい。

 

病気を治したければ治せばいい。

 

でも行きたいところに行けなかったとしても、あなたは不幸ではありません。

 

 

 

たとえ病気が治らなくても、あなたは不幸ではありません。

 

健康になったら、その時ようやく幸せになれると思うことは間違いです。

 

あなたが物質的にどんな状況下にあっても、あなたの心には平和を感じる自由があります。

 

 

 

外側に見えるものに、あなたを幸せにしたり不幸にする力はないということです。

 

 

 

 

肉体が傷ついても、それは不幸ではありません。

 

心まで痛みを感じる必要はないのです。

 

 

そのときあなたがするべきことは、愛を思い出すこと。

 

自分は愛から生まれた愛そのものであること。

 

 

 

自分が愛そのものであるならば、

 

まず最初にするべきことは何だろうとイメージしてみてください。

 

 

 

 

そのとき最初に浮かぶものは、

 

自分の病気を憎んだり、

 

病気を治せない自分を責めたり、

 

誰かに八つ当たりすることではないはずです。