【病気と死⑤】マインドが癒されていないと言われてネガティブな気持ちになる場合


 

「あなたはマインドが癒やされていないために病気になりました」

 

誰かにそう言われてネガティブな気持ちになる場合があります。

 

 

病気の原因がマインドに潜む罪悪感であること、

 

マインドが癒やされていないために自らのマインドが病気をつくり出すという概念はたんなる原理です。

 

 

このサイトも病気が起こるメカニズムをスピリチュアルな視点で説明しているにすぎません。

 

 

「あなたが風邪を引いたのは傘もささずに雨に濡れたせいですよ」と言われるのと大差ありません。

 

 

しかし、そう説明されて嫌な気持ちになったり、

 

「そんなこと言うべきじゃない」と感じる人がいます。

 

 

 

なぜでしょうか。

 

考えられる理由をいくつか書いてみます。

 

 

 

 

 

 

 

【優越感と劣等感が元になる】

 

 

とりわけスピリチュアルな学びに熱心で「私は他の人より進歩しているはず…」という優越感を少なからず持っている場合、先の言葉を誰かに言われると、

 

「病気をする自分は健康な人に比べ霊的に劣っているのではないか?」と感じてしまったりします。

 

 

しかし、人生でほとんど病気らしい病気をしたことがない健康な人がいたとしても、その人のマインドに罪悪感が全くないわけではなく、

 

病気とは違う困難、

 

病気とは別の《罪悪感の象徴》をつくりだしていることがほとんどです。

 

 

 

 

マインドが癒やされていないと誰かに言われたとして、

 

自分にそう説明した相手が、自分よりも霊的に進歩していると思える相手だった場合、

その説明を素直に受け止められるかもしれません。

 

しかし、その相手に対して劣等感を感じてしまえばネガティブな気持ちに囚われてしまうでしょう。

 

 

 

 

それとは逆に自分より進歩が遅れていると感じる相手から言われたらどうでしょうか。

 

自分の中に優越感がありますから、言われてムカッとくるでしょう。

 

 

説明する相手がイエス・キリストであろうが、

 

人間のクズと呼ばれる人であろうが、

 

伝えている言葉の中身は同じです。

 

しかし、自分に言った相手が誰であるかで自分の受け止め方は変わってしまうのです。

 

 

 

自分に役立ちそうな原理を取り入れて、

 

自分の人生をより前向きに輝かせることができるなら、

 

説明する相手が誰であっても構わないのではないでしょうか。

 

 

 

 

誰かにそう言われて「そう言われてみるとそうなのかもしれない」と自分の中で引っかかるものがあったのなら、

 

その言葉、その原理だけを自分の中に残し、

言った相手が誰であったかは忘れてしまえばいいのではないでしょうか。

 

 

 

優越感と劣等感は、いつだって自分の心の目を曇らせてしまうのです。

 

 

 

 

 

 

 

【他人に告げるときの注意点】

 

 

 

自分が誰かに説明する立場になった際もよくよく注意が必要です。

 

病気に限ったことではありませんが、

 

誰かに「あなたのマインドは癒されてない」と伝えるとき、

 

自分の中に優越感があるかどうか疑ってみる必要があります。

 

 

 

 

優越感で上から目線で相手に伝えているときは、

 

相手に起きていることはあくまでも相手の中の問題と捉え、

 

無意識に自分と相手を切り離して見てしまっています。

 

 

 

相手が同じスピリチュアルな学習者であれ、身近な友人や家族であれ、

 

今その人と縁があって向き合っているということは、

 

相手の病気の問題は、自分自身の問題でもあるということです。

 

 

 

相手の病気という一つのレッスンを自分自身も共有しているということです。

 

 

 

 

共有しているという意味は、一緒になって病気になるってことではありません。

 

病気になるという経験を共にするのではなく、

 

病気になってしまったことを共に赦すということです。

 

 

目の前に現れる人は、それが誰であれ自分のマインドの中を映し出してくれている鏡として存在してくれています。

 

 

病気というレッスンと向き合っている誰かと出会うということは、

 

同時に自分自身にとってもそれがレッスンであることを意味します。

 

 

 

 

上から目線で相手を見るとき、

 

相手のことを「自分とは違う存在」と信じている、

 

自分と相手は分離していると信じてしまっているということになります。

 

 

 

 

それでは、病気の相手を「可哀想」と思うときはどうでしょう?

 

私たちは相手に同情することは相手への思いやりでありポジティブなことだと信じています。

 

しかし、相手を可哀想な存在と信じることは、

 

相手のことを『本当は一度も病気などしたことがないスピリット』ではなく

 

『あくまでも相手は弱くて脆い肉体という存在だ』

 

と信じているということです。

 

 

 

「相手は肉体である」=「相手は弱い存在」という信念を自分が持っているのなら、

 

「同様に自分自身も肉体であるがゆえに弱くて脆い存在だ」と無意識に信じているということになります。

 

 

 

 

自分の思い、自分の信念が自分の経験を生み出しています。

 

誰のレッスンであれ、

 

どんなレッスンであれ、

 

常に問われることは、

 

『自分は何を信じているか、自分は何に価値を置いているか』

 

ということです。

 

 

 

 

病気をする人も、健康な人も、

 

この幻想世界に残っている時点で、マインドが完全に癒やされていないために夢の中にいるという点では同じです。

 

私たちは常に自分自身のためのレッスンに向き合うだけです。

 

あなたの前にやってくるレッスンは、あなただけのオリジナルなカリキュラムです。

 

隣の人は隣の人のオリジナルなカリキュラムと向き合います。

 

 

自分がどんな《罪悪感の象徴》をつくりだしたとしても、

 

他人と自分を比較することは何の意味はないのです。

 

 

 

 

スピリチュアルな学びを始めて間もない人のほうが、

 

「マインドが癒されてない」という言葉を比較的ポジティブに受け取れるのかもしれません。

 

 

病気の原因が自分の外側からやってくるように見えて実はそうではないこと、

 

病気は肉体自身が生み出すのではなく、

 

マインド(正確にはフィジカルマインド)から生み出されるという真理は新しい目覚めのように感じられるかもしれません。

 

 

原因不明で治療法がわからないときはなおさらです。

 

 

病気を経験することは、人より劣っているからではなく、

誰もがどこかの人生で必ず経験すること(現世、来世、並行世、過去世など)です。

 

 

今ここにいる自分が体験する番が来ただけです。

 

 

誰もが順番に経験します。

 

 

ただ人それぞれ体験する順序が違うだけです。

 

 

そういう意味では全ての人は平等なのです。

 

 

しかし、私たちに見えるものは《今ここ》だけですから、

 

「どうして自分だけが……」

 

と思ってしまうのは仕方ありません。

 

 

 

みんなそれぞれどこかの人生で似たような体験をし、

 

その体験をどこかの時点で受け入れてゆるすことができたとき、

 

初めてそのレッスンは終わります。

 

 

その時から似たようなレッスンを繰り返す必要はなくなるのです。

 

 

病気そのものに意義はありません。

 

しかし、その体験を《ゆるしのレッスン》として活用することに意義はあります。

 

 

病気というレッスンを通して、

 

本当の自己にまた一歩近づくことはできます。

 

 

 

病気に特別な意義はなくても、

 

ゆるしのレッスンとして活用するときに病気の体験を意義あるものとして再定義できるのです。

 

 

 

本来経験する必要のないものを自分がつくりだしたと理解が進むと、

 

最初にネガティブに感じられた『病気の原因が肉体そのものではなくマインドにある』という原理は、

 

闘病生活に差し込んだ一筋の光のように受け取れるに違いありません。