【病気と死②】死はレッスンの区切りⅠ


 

肉体の死は終わりではなく一つの区切りにすぎません。

 

肉体を失って非物質世界に移行しますが、

非物質世界も、物質世界も、自我(フィジカルマインド)が投影している夢にすぎません。

 

非物質世界から物質世界に生まれたという夢を見て、

 

やがて死んで、非物質世界に戻るという移り変わりを夢の中で体験するのです。

 

私たちがどのようなタイミングで死を迎えるのか、

 

それを説明するために、まずは生まれてきた目的から大まかに説明してみたいと思います。

 

 

 

 

 

【この世界に生まれてくる目的】

 

 

この物質世界という夢に生まれてくるという目的は、まだやり終えてないレッスンが残っているためです。

 

レッスンをこの物質世界でなく、非物質世界ですべて行うことは不可能ではないらしいです。

 

しかし、同じレッスンを物質世界で行う場合と、非物質世界で行う場合の、私たちが感じる難易度は同等であるはずはありません。

 

 

時間や空間、肉体や重力、病気も飢えも存在する制限だらけの物質世界と、

 

そういったものが存在しない非物質世界では、

 

時間の経過は幻想であるものの、非物質世界のレッスンは物質世界の何倍何十倍もの膨大な時間を必要とするようです。

 

 

つまりずっと非物質世界に留まっていては、霊的進化の道程は相当遠回りするはめになるってことでしょう。

 

 

 

 

そういう意味で、この物質世界に生まれてくるすべての神の子は、

 

とてつもなく勇敢で、無条件で尊敬に値するチャレンジャーです。

 

 

 

私たちは偉大な挑戦者です。

 

凄いんです、この世界にやってくるということは。

 

尊いのです、私たちという存在は。

 

 

 

 

 

一つのレッスンは、現世、前世、来世、並行世にまたがって同時に経験しています。

 

時代、国、立場に違いはありますが、

次元をまたがる一つのレッスンは基本的に似通っているのが特徴です。

 

自我が投影するものを(今ここにいる自分がネガティブだと信じているもの)、

 

今ここで見方を180度変えて、

 

心が全く違った反応ができるようになるためのレッスンです。

 

 

 

 

私たちがこの世界で見るもの聞くものにネガティブな反応をするのは、それについて間違った価値判断をしているせいです。

 

その間違った信念(自我)を修正することで、

 

自分の中の自我を削り落としていき、

 

最後には100%神が創造したままの自分として生きられるのです。

 

 

 

 

今生で、この肉体で、この環境で、どんな経験をするのか、どんなレッスンが待っているか、

 

私たちは承知したうえで生まれてきて、

 

生まれると同時に知っていたという事実を忘れます。

 

 

 

忘れる理由は、その方がレッスンにとって都合が良いからです。

 

なぜならどんなレッスンを受けるのか、そのレッスンをどんな順番で経験するかは常に流動的だからです。

 

それに事前に内容を知っていたら肉体意識の私たちは時にそのレッスンを怖れ、

 

そのレッスンを避けるために逆算して行動するようになってしまいます。

 

 

 

受けるはずのレッスンを避けるように生きていてはそのレッスンは終わりません。

 

私たちがあるレッスンを先延ばしにするとき、ひょっとしたらそのレッスンにチャレンジするのは数十回、数百回目かもしれません。

 

 

 

よってレッスンの多くは、肉体意識では予測できないタイミングでやってくるのです。

 

それが避けても問題ない出来事ならば(それまでの生き方によって、もうそのレッスンを受ける必要がなくなった場合)、

それを回避するためにハイヤーセルフや守護霊らが安全に誘導してくれるでしょう。

 

 

 

偶発的に受ける必要のないレッスンがやってくることは絶対にありません。

 

私たちが経験するレッスンはすべてが受けるべきレッスンとしてあらかじめ用意されているのです。

 

 

するべきレッスンの一つが完結しないまま死を迎えることがあっても、

 

そのレッスンは今生よりも別の人生で行う方がベストになったからであり、

 

今生で肉体の死を迎える時は、

 

それはそれで一つの完璧な区切りです。

 

 

 

 

それはそれで必要な単位を修得した小さな卒業式です。

 

 

 

なぜ「小さな~」なのかというと、

 

真の卒業は私たちが完全に自我を捨て、永遠に神と一体であることを完全に思い出した時だからです。

 

 

 

 

ある人がどんな亡くなり方をしたとしても、

 

それが物理的にどんなふうに見えたとしても、

 

それはそれで小さくはあっても完璧なのです。

 

 

 

 

今ここでやるべきレッスンをとりあえず終わったという意味では、

 

死は幸福であっても不幸であることは絶対にないのです。

 

 

 

 

 

 

 

【同じレッスンを何度もチャレンジする】

 

 

このパターンの人生で可能なレッスンはもう残っていない、

だから違うパターンの人生に移行していく……

 

 

それは別の表現をすれば、ある学校から違う学校へ転校する、ある教室から別の教室に移動していくようなものかもしれません。

 

時に移動した教室が以前の教室にそっくりな場合があります。

 

 

 

 

たとえば今この瞬間あなたが死んでしまったとします。

 

病死なのか事故死なのか、死因はここでは問題にしません。

 

 

実際はもっと複層的で多次元にまたがるお話ですが、ここでは極端に単純化して説明します。

 

 

 

 

あなたが死ぬ今この瞬間を分岐点とします。

 

その分岐点まであなたはいくつものレッスンと向き合ってきました。

 

 

 

仮にA→B→Cとレッスンをしてきて、そこで死を迎え、

 

今生のレッスンはここで終了ということになりますが、それは今ここにいるあなたの話です。

 

 

 

そもそも今ここにいるあなたは、同時にいくつものパターンを生きている並行生の一人にすぎません。

 

 

死を迎え、

 

この物理次元をいったん離れ、

 

あらためて違う環境で、違う人間として、

 

違うパターンの、違ったレッスンを始めることになるあなたがいます。

 

 

 

 

そんなあなたと同時に、たとえば分岐点で九死に一生を得て、そのまま同じ人生でレッスンDから続けてゆくあなたも存在したりするのです。

 

 

どうして二つに分かれるのか?

 

 

実際の分かれ方は多岐にわたるのでしょうが、ここでは分かりやすく二つで説明します。

 

たとえば死んでしまったパターンの場合、これは理由の一つにすぎませんが、死ぬことそのものも大きなレッスンであるのです。

 

特に唐突に心の準備もできぬなまま突然亡くなったり、

 

年齢的にまだ幼くして亡くなるなど、

 

その事実を受け入れてゆるせるようになることは、

 

肉体を失った当人はもちろん、遺された身近な人たちにとっても受け入れ難い大きなレッスンになります。

 

 

亡くなった当人にとっては、愛する人を遺してゆくこと、

 

あるいはこの世界で果たせなかった夢を捨ててこの世界を去らねばならないことがレッスンとなり、

 

遺された人にとっては、愛する人の死を受け入れていくレッスンとなるわけです。

 

 

 

それぞれの立場で、

 

それぞれの視点で、

 

一つのレッスンを共有するわけです。

 

 

 

この立場の違いというのは、実はまったく平等であり、

 

あなたが愛する誰かを置いていく立場なら、

 

違う人生では(並行生、過去生、来生)立場を変えて、

 

あなたが愛する誰かに先立たれてしまう経験をすることになっています。

 

 

 

 

逆に分岐点で死なずに生き残るというパターンの場合は、

 

その人生を続けていくなかで可能なレッスンが残っているということです。

 

 

 

九死に一生を得るという体験や、

 

その時の病気や事故が原因で肉体に後遺症が残ってしまう場合なども大きなレッスンとなります。

 

それを当人も、周囲の人も、その経験をどのように受け入れ、どのようにゆるしていけるのか、重要なレッスンになるのだと思います。

 

 

あるいは九死に一生を得たあと、体に何の問題もなく元気いっぱいに生き続けるパターンもあるでしょう。

 

それはそれで何もレッスンがないわけではなく、

 

死を乗り越えた経験を最大限活かし、残りの人生を力強く生きてゆくこと、

 

その生き方そのものが多くを学ぶレッスンとなるかもしれません。

 

そして、そんな生き方が後々に周囲の人に大きな影響を与えることになるかもしれません。

 

 

 

レッスンは自分一人で行われるものではありません。

 

常に他の誰かと自然に共有しながら進められていくのです。

 

 

 

 

 

あるいはこんなケースもあるかもしれません。

本当は死にたかったのに生き残ってしまうようなパターンです。

 

 

自殺を試みて失敗するとか、自暴自棄に生きていた場合などがあるでしょう。

 

九死に一生を得て、そこから自分の置かれた状況をどう受け入れて、

 

残りの人生にどんな意義を見出していくのか、それもまた重要なレッスンです。

 

 

 

人生は大なり小なり様々な選択を繰り返します。

 

その時々の選択により、その時点で様々なパターンの並行生へと分岐していくわけです。

 

 

 

 

 

 

すべてのパターンは同時に進行しています。

 

一つ一つの選択、

 

すべての方向性には正解も不正解もありません。

 

 

 

 

正解が一つ二つあって、他は間違いだったということでなく、

 

今ここで何らかのレッスンを受けているとすれば、それはいずれどこかで受ける必要のあるレッスンだったのです。

 

 

 

 

そしてそのレッスンは、一度終わってしまえば全く同じパターンのレッスンはやってこなくなるということになります。

 

 

繰り返しますが、そのレッスンが完了できたかどうかは、

 

それを再び経験したとき、あるいはその経験を思い出したとき、

 

それについての自分の感情が180度反転しているか、

 

それについての感情が何も湧いてこなくなっていることが判断基準になります。

 

そのレッスンはそれで終了です。

 

 

 

 

 

これはよくあるのですが、ある過去の経験について、

 

「自分ではもうそれについて何とも思ってない」と信じていることがあります。

 

 

しかし、本当はそれを思い出すことが辛いために何も感じなくなったフリをしている場合が多く注意が必要です。

 

 

潜在意識の奥にしまい込んで、もうその問題は解決済みってことにしてしまうわけですが、レッスンというものは終わるまでけっして消えてなくなることはなく、いずれまた向き合う機会がやってきます。

 

 

 

 

 

さまざまなレッスンは繋がりをもっています。

 

あるレッスンときちんと向き合ったことで、

 

そのレッスンを繰り返さないで済むだけでなく、

 

将来、特定の別のレッスンを回避するようになったりします。

 

 

 

 

一つのレッスンは別のレッスンとリンクを貼っているわけですね。

 

 

 

 

 

僕自身にもいくつものレッスンが残っています。

 

あなたにもいくつものレッスンが残っていることでしょう。

 

残っているからこそ今ここにいるんですよね。

 

 

 

 

スピリチュアルレッスンの特徴は、コツコツと乗り越えていくごとにだんだんとレッスンが楽になっていくことです。

 

 

困難がやってきた時、「これはレッスンが来たんだな」と気づけるようになります。

 

問題に直面したとき、だんだんとうろたえる時間が少なくなっていきます。

 

 

 

レッスンは毎回簡単ではないでしょう。

 

ですが、だんだんと落ち着いて向き合えるようになってきます。

 

それはある意味で強くなるってことかもしれません。

 

 

 

 

その強さは、困難を跳ね返してしまうようなものでなく、

 

困難が透明人間になった自分の中をスーッと通り抜けていく感覚かもしれません。

 

 

 

 

避けるのでもなく、

 

跳ね返すのでもなく、

 

何も痛みを残さずに通り過ぎていく……

 

 

 

 

困難は波はあるものの、いつまで経っても定期的にやってくるでしょう。

 

でも私たちは、その困難から一切の影響を受けなくなる日はいつか必ずやってきます。

 

 

一切の出来事や、一切の関係性から完全に自由になるときは必ずやってきます。

 

 

その時期は人それぞれ違いはありますが、

 

私たちはそこを目指して、今ここの人生を生きています。

 

 

 

(次回へ続く)