時間の流れ②


 

 

今回は時間の流れを《駅伝競走》でたとえてみようと思います。

 

 

たとえば、1区から6区までの駅伝だとします。

あなたはこのレースをテレビで見ていると仮定します。

 

 

当然1区からスタートします。

 

 

あなたは1区の選手から見ることになります。

 

1区のランナーが2区のランナーにタスキを渡したら、

 

 

中継しているテレビカメラは2区の選手を追いかけるので、

 

 

テレビで応援しているあなたも2区の選手を見ることになります。

 

 

 

こうやって2区から3区、3区から4区へとタスキは渡されていきます。

 

 

そして最後に6区のランナーがフィニッシュします。

 

 

 

 

テレビの前のあなたは、1区から6区までを順番に見て、まさにレースはリアルタイムで進行したように感じます。

 

 

 

 

しかし、前回の映画の撮影のたとえ話と同様に、すべての時間は同時につくられています。

 

 

 

とすれば、1区から6区までのランナーは順々に交代して走っているのではなく、実は同時に走っていることになります。

時間が流れているように見える一つ一つの出来事は、最初にマインドによって同時につくられました。

映画という物語が、あたかも【時間の流れ】があるかのように撮影され、編集されているように、

 

あなたが見ているこの世界もまた、あたかも【時間の流れ】があるかのようにつくられています。

 

 

 

 

すべての時間を同時に見ているもう一人のあなたがいます。

 

このもう一人のあなたは、完全に【時間の外側】にいて時間の全体を見渡すことができます。

 

その一方で、時間の流れの一つ一つを、順々に見ているあなたもいます。

 

それが今これを読んでいるあなたです。

 

 

 

 

駅伝の1区から6区まで順々に見ていれば、6人のランナーが順々に走っているように見えます。

 

 

しかし、6人のランナーは、各々が別々の時間、別々の場所を走っているという設定のもとに、

 

 

本当は同時に同じ瞬間を走っているのです。

 

 

【過去と現在と未来】は同時に存在します。

 

 

 

同時に存在しているからこそ、

 

 

すべては同じ【今】なのです。

 

 

つねに【今この瞬間】なのです。

 

 

 

【過去・現在・未来】は、

 

 

同時に在るからこそ、

 

 

過去も未来も幻想にすぎないのです。

 

 

つねに在るのは【今、ココ】なのです。

 

 

すべての瞬間は、過去や未来に分類できないのです。だってすべては【今】ですから。

 

 

そして同時につくられたものに一つずつ意識を集中すること、それが【今を生きる】ということの説明にもなります。

 

 

 

 

そしてすべては同時につくられて、同時に終わっています。

 

 

だから、すべては【過去形】ともいえます。

 

 

 

 

時間の流れは存在するのではなく、

 

 

私たちのマインドの中で、

 

 

分離を信じてしまったマインドの部分が、

 

 

「時間の流れはたしかに存在するってことにしましょう。そういうように感じることにしましょう」という約束事にすぎないのです。

 

 

すべての時間は同時に存在します。

 

 

すべての瞬間に、別々のあなたがいます。

 

 

(さらに別の回で違った見方で説明していきますね)