今回は時間の流れを《駅伝競走》でたとえてみようと思います。
たとえば、1区から6区までの駅伝だとします。
あなたはこのレースをテレビで見ていると仮定します。
当然1区からスタートします。
あなたは1区の選手から見ることになります。
1区のランナーが2区のランナーにタスキを渡したら、
中継しているテレビカメラは2区の選手を追いかけるので、
テレビで応援しているあなたも2区の選手を見ることになります。
こうやって2区から3区、3区から4区へとタスキは渡されていきます。
そして最後に6区のランナーがフィニッシュします。
テレビの前のあなたは、1区から6区までを順番に見て、まさにレースはリアルタイムで進行したように感じます。
しかし、前回の映画の撮影のたとえ話と同様に、すべての時間は同時につくられています。
とすれば、1区から6区までのランナーは順々に交代して走っているのではなく、実は同時に走っていることになります。
時間が流れているように見える一つ一つの出来事は、最初にマインドによって同時につくられました。
映画という物語が、あたかも【時間の流れ】があるかのように撮影され、編集されているように、
あなたが見ているこの世界もまた、あたかも【時間の流れ】があるかのようにつくられています。
すべての時間を同時に見ているもう一人のあなたがいます。
このもう一人のあなたは、完全に【時間の外側】にいて時間の全体を見渡すことができます。
その一方で、時間の流れの一つ一つを、順々に見ているあなたもいます。
それが今これを読んでいるあなたです。
駅伝の1区から6区まで順々に見ていれば、6人のランナーが順々に走っているように見えます。
しかし、6人のランナーは、各々が別々の時間、別々の場所を走っているという設定のもとに、
本当は同時に同じ瞬間を走っているのです。
【過去と現在と未来】は同時に存在します。
同時に存在しているからこそ、
すべては同じ【今】なのです。
つねに【今この瞬間】なのです。
【過去・現在・未来】は、
同時に在るからこそ、
過去も未来も幻想にすぎないのです。
つねに在るのは【今、ココ】なのです。
すべての瞬間は、過去や未来に分類できないのです。だってすべては【今】ですから。
そして同時につくられたものに一つずつ意識を集中すること、それが【今を生きる】ということの説明にもなります。
そしてすべては同時につくられて、同時に終わっています。
だから、すべては【過去形】ともいえます。
時間の流れは存在するのではなく、
私たちのマインドの中で、
分離を信じてしまったマインドの部分が、
「時間の流れはたしかに存在するってことにしましょう。そういうように感じることにしましょう」という約束事にすぎないのです。
すべての時間は同時に存在します。
すべての瞬間に、別々のあなたがいます。
(さらに別の回で違った見方で説明していきますね)