愛に囲まれる感覚 愛を遮断する感覚③


 

 

【愛を遮断したくなる感覚】

 

 

最初にその愛の感覚を体験した時は自分の部屋にいました。

 

とてもとても心地よく、とてもとてもありがたく、本当の強さを感じられた時間でした。

 

 

 

しかし、だんだんとそのままではいられなくなるのです。

 

そわそわしてくるのです。

 

なんとなく落ち着かなくなってくるのです。

 

とても偉大な力強さと、深い深い安らぎを、同時に体験していながら、

どんどんその場を離れたくなってくるのです。

 

 

 

二度目の体験の時は道を歩いていました。

 

ちょうどバス停に向かって歩いていました。

 

愛がどんどん流れ込んでくる。

 

感謝と涙がどんどん溢れてくる。

 

 

 

大通りに近づいてきました。

 

遠くにバス停が見えてきました。

 

 

次の瞬間、僕が感じたことは、

 

「このままじゃいられない」

 

です。

 

 

 

 

バス停には誰かがいます。

 

バスに乗ったら誰かに会います。

 

 

「今のこの状態で誰かに会えない」

 

「この状態ではいられない。この状態の自分では生活できない。社会に適応できない」

 

 

そんな感覚です。

 

 

 

あんなに心地よく、

 

あんなに幸せな時間だったのに、

 

一転して、悪い夢から早く覚めたいと思うような感覚が始まったのです。

 

 

 

その感覚が始まると、だんだんと元の状態、普段通りのいつもの自分に戻っていきます。

 

 

 

あんなに会いたかったのに、

 

あんなに待ち望んでいたものなのに、

 

自分の手でそれを振り払ってしまうのです。

 

 

 

 

その時、初めてわかったのです。

 

「あぁ、これが神への怖れなんだ」と。

 

「これが神への罪悪感なんだ」と。

 

この感覚だったんだ、と。

 

 

 

私たちが肉体から離れ、

神のいる実相に近づきながら、再びこの幻想の宇宙に戻ってきてしまう感覚。

 

 

ようやく実在の世界まで近づいたにもかかわらず、自らの意思でUターンして再び神から遠ざかっていく。

 

 

幻想でありながら、またこの世界に生まれ変わってくる。

 

 

 

それが私たちに潜む自我(エゴ)そのものであり、

 

それが私たちが秘かに持ち続けて離さない罪悪感そのものなんだ、と。

 

 

 

なんとなく頭ではわかったつもりでいながら本当は理解できていなかったことを実体験で理解したのです。

 

 

 

こういう感覚か。

こういうことか。。。

 

 

うっすらと目が開いて、ゆっくりと光が差し込んできて、その途端ギュッと目を閉じてしまう感じ。

 

 

こういうことを僕らは何万回とくり返しているのです。

 

 

なぜ引き返すのか、

 

なぜそのまま神の元に進まないのか、

 

なぜそこに留まっていられないのか、、、

 

理屈で理解しようと思ってもできないのです。

 

体験から学ばないとわからないのです。

 

 

 

その体験は僕にとって重要なレッスンの始まりでもありました。

 

この怖れを解除することは簡単ではありません。

マインドの深い深いところに、自分が想像している以上にエゴはしっかりと根を下ろしているからです。

 

 

ゆっくり、ゆっくり、

 

少しずつ、少しずつ、

 

自我の見方を捨て、

 

自分の判断を捨て、

 

聖霊(ハイヤーセルフ)の見方で見るものすべてを解釈し直すことでしか取り除けないのです。

 

 

 

 

この怖れを、

 

この罪悪感を、

 

誰かが代わりに取り除いてくれるならいいですが、それは不可能です。

 

 

 

それをするために僕らは“今ここ”に居るのですから。

 

怖れを癒したぶんだけ、レッスンの内容は変わってきます。

 

少しずつ、少しずつ、実生活で体験することから真理を学んでいくようになります。

 

 

 

誰もがそうです。

 

体験する内容に違いはあるものの、学ぶべきことは皆んな同じです。

 

 

 

時期は違えど、体験の方法は違えど、学ぶ本質的なことは一緒なのです。

 

神の愛は、自分の中で受け入れる準備ができた分だけ流れ込んできます。

 

 

怖れを、罪悪感を癒すたびに、ちょっとずつ、ちょっとずつ、自分に流れ込んでくる量が増えていきます。

 

外側から流れてくるとか、

量が増えてくるという書き方をしていますが、これはわかりやすく伝えるための表現です。

 

 

 

すべては自分の中で起きます。

 

すべては自分の中で始まり、すべては自分の中で完結するのです。

 

 

 

すべては一つです。

 

外側と内側の境は幻想です。

 

 

 

夢とイメージと現実に境界はありません。

 

 

 

 

以前知り合ったクライアントさんの中に、僕とは正反対の経験をした方がいました。

 

その方は僕とほぼ同年代なのですが、僕が年齢を重ねてから体験した愛の体験をすでに幼少期に経験していたそうです。

 

 

幼い頃、神に限りなく愛されているという感覚が湧き起こり、ただただありがたく涙が溢れてきたそうです。

この世の全てが学びで、この世の全ては自分の意識が創っているという感覚が度々起きたそうです。

 

しかし、思春期に入った頃、その感覚はパッタリ途絶えてしまったようです。

強烈な自己否定と罪悪感が襲ってきて、それから感情がほぼなくなったような感覚になったと仰っていました。

 

まるで潮が引くように、それっきりその愛の感覚は起きなくなったというのです。

 

その感覚が無くなってしまってから、その人は喜びとは何なのか忘れてしまいました。

 

それから長い間、暗い闇の中を彷徨うようになりました。

 

お話を伺った時は、難病を抱えながら、一筋の光を求めて毎日を生きていらっしゃいました。

 

 

 

誰しもマインドの一部に本来あるはずのない罪悪感を持っています。

 

それは神から分離してしまったことへの罪悪感であり、

 

それを理由にいつか神から罰せられるであろうと信じる愚かな恐怖心です。

 

 

 

その罪悪感、それは自我であるわけですが、それは神が創造してはいないために幻想です。

 

実在しない幻想であるが故に、その自我は消すことが可能なのです。

 

 

人それぞれにレッスンがあります。

 

本質的に学ぶことは同じですが、何をどの順番で、どんな方法で学んでゆくのかは人それぞれ違います。

 

 

今生での僕は、年齢を重ねてからようやく神の愛について学ぶレッスンが始まりました。

正確には神の愛を思い出すためのレッスンです。

 

そのクライアントさんは、子供時代までは神の愛を憶えていたのです。

 

しかし、成長するにつれその愛をだんだんと思い出せなくなり、

絶望し、そして再びその愛を思い出すために新しいレッスンを始める時期を迎えたのです。

 

 

僕とその方とは体験の順序は違っていましたが、学ぶことは同じです。

 

仲間です。学友です。

 

同じ神の子です。兄弟です。

 

 

 

今これを読んでくれているあなたもそうです。

 

仲間です。

 

一つです。

 

同じ神の子です。

 

 

何をどの順番で学ぶかは自分で考える必要はありません。

 

必要な学びは、然るべき時期に、然るべき場所でちゃんと始まります。

 

それぞれの神の子が、それぞれに一番適した時期に、一番適した方法で学びの場が聖霊(ハイヤーセルフ)によって用意されています。

 

 

 

私たちがするべきことは、その都度その都度やってくるレッスンを怖れずに受け入れることだけです。

 

 

ゆっくり、ゆっくりでいいんです。

 

 

少しずつ、少しずつでいいのです。

 

 

受け入れていくのです。

 

 

それが癒しです。

 

それが自分を癒すことです。

 

それが誰かを癒すことです。

 

 

それがゆるしです。

 

ゆるしが癒しです。

 

 

それが自らを救うのです。