私たちが『両親』に求めるものはただ一つしかありません。
無償の愛です。
何の条件もつけずに自分を愛し続けてくれることです。
私たちは、なぜそれを求めるのでしょうか?
それが私たちにある『神』の記憶だからです。
私たちは『神』がどんな存在か忘れてしまっています。
しかし、マインドの奥のほうで、ほんのかすかな記憶がしまわれています。
私たちのことを、「確かにそのように愛してくれた存在がいた」という記憶です。
私たちはこの世界に生まれてくるときに、
自分の『両親』がどんな人たちか承知の上で生まれてきます。
その後の自分の人生が、だいたいどんな人生になるのかもわかったうえで生まれてきます。
自分の意志でその両親を選びます。
気まぐれで選ぶわけではありません。
選べるといっても、まったく無制限に選べるわけではありません。
理想的な両親を選り好みできるわけでもありません。
他のテーマで「起きる出来事はレッスンです」とお話ししましたが、両親を選択する基準も同様です。
レッスンとしてあらゆる出来事を体験し、それらを受け入れ、ゆるし、レッスンを一つ一つクリアするのと同様に、
くり返し、さまざまな人生を生きながら、あらゆるタイプの両親のもとに生まれる経験をするのです。
それぞれのパターンの両親のもとでしか経験できないことがあります。
その環境のもとでしか学べないこと、気づけないことがあります。
それらを経験し、それらをゆるしていく。
最終的には、それらすべてを自分の中で受け入れてみせること。
これが私たちが生まれてくる理由であり、両親を選ぶ基準にもなるのです。
時間や空間はこの物質世界の幻想です。
非物質世界では、いったん時間の枠組みの外に出ます。
よって非物質世界では、これから自分が過ごす人生全体をあらかじめ見渡すことができるのです。
私たちが生まれてくる前にいる場所、私たちが死んでから向かう場所、それらは同じ場所(次元)です。
その場所では時間という枠組みの制限を受けないために、これから過ごす人生全体を前もって知ることができます。
生まれる前に自分がその人生全体でどんなことを体験することになるか、わかります。
わかっているけど、生まれてくるときにその情報は全部忘れます。
なぜ忘れるのかというと、すべてを憶えていたら、この世界で生きていけないからです。
たとえば、夜道を歩くとき、その道の先にオバケが潜んでいると知っていたらその道は通りませんよね。
それじゃ、ダメなのです。
私たちの人生は、どうしても通らなければならない道があるのです。
怖れを克服し、あえてその道を通って、そこに潜んでいるオバケが実は実在しない幻だってことを、
自分自身で証明しなくてはならないのです。
それが、この世界の【幻想を否定してみせること】なのです。
僕だって、「すべてが幻想です」と言ってますが、突然何か起きたら、驚いたり動揺したりします。
しかし、昔の僕と今の僕の違いは、何かで驚いたりしてもすぐに聖霊(ハイヤーマインド)の声が聞こえてくることです。
「幻想だよ」
「現実じゃないんだよ。思い出して」
「だからゆるすんだよ」と。
これは、ひたすら地味にコツコツと自分の心を訓練していく以外に方法はありません。
僕の訓練は、さまざまな存在の助けを借りながら、これからも続いていきます。
基本的にあなたと同じ立場です。
この世界はもちろん、この世界にある私たちの肉体も【幻想】です。
『本当の私たち』は『神』がどんな存在かちゃんと知っています。
しかし、私たちのマインドの中には、
『神』からの分離を信じてしまっている【フィジカルマインド=自我】が存在します。
この【フィジカルマインド】が、肉体が実在していると信じ、肉体をつくりだしているのですが、
当然その中に『両親』という存在も含まれるのです。
あなたの『両親』は、
【フィジカルマインド】がつくりだした、
【フィジカルマインド】が信じる『神』のイメージを投影されています。
【フィジカルマインド】は私たちの外側にあるのではなく、私たちのマインドの中にあるものですから、
『両親』はあなたのマインドが信じている『神』のイメージであり、
究極的な言い方をすれば『両親』はあなたがつくりあげたといっても過言ではないのです。
ややこしい言い方ですが、『両親』が子供をつくったように、子供もまた『両親』をつくったのです。
たとえば、すごく大まかな言い方で説明してみるとこんな感じになります。
あなたの親が、子供にあれこれ条件をつけて、その条件をクリアしないとあなたを愛してくれない親ならば、
あなたのマインドは、
「『神』は『神の子』にあれこれ条件をつけないと愛してくれない存在だ」という観念をもっていることになります。
両親のうち、片親はやさしいけれど、片親はいつも厳しいのであれば、
「『神』はやさしい反面、『神の子』にとても辛く厳しくあたる面がある」と信じているのかもしれません。
親に捨てられる経験をするのは、マインドで「自分は『神』に見捨てられた」と信念をもっていることになります。
親が病気や事故でこの世を去って途方にくれるのも、
同様に、「『神』はある日突然自分の前からいなくなった」と信じているのかもしれません。
また子供の側の視点だけではなく、マインドは親になる側の視点でも同時につくりあげているわけですから、
たとえば、子供を愛せずに虐待をくり返してしまう親は、
「『神』はいつも『神の子』に残酷な試練を与えるもの」と信じているのかもしれません。
『両親』という存在が、子供側のイメージの投影であるのと同様に、
両親のほうもまた、自分たちが信じる『神』のイメージを親の立場から無意識に演じているのです。
これは、両親と子供、両者の【共同幻想】という言い方もできます。
たとえば、あなたが親だとして、子供にいつも厳しくあたってしまうのだとしたら、
それはあなたが「『神』はいつも『神の子』に厳しくあたるもの」という観念をもっているのかもしれません。
これは間違えないように気をつけてほしいのですが、
マインドが投影しているものは、
「親はこうであってほしい」という願望ではなく、
「親は(『神』は)こういうものにちがいない」という信念です。
親も子も、共に一つのマインドです。
一つのマインドが『親』と『子供』の両方をこの幻想に投影しているのです。
この観念は、修正が可能です。
あなたが子供の立場だとしても、あなたが親の立場だとしても、
自分の『神』へのイメージを変えることで、
人間が誤ってつくりあげた「神様」ではなく、『真実の神』は何かを知ることで修正されていきます。
修正することで、マインドがつくりだしているこの物質世界にも変化が現われ始めます。
もしも、なかなか変化が起きなかったとしても、
あなた自身が本当に『神』というイメージを変えられたなら、
誤ってつくられたイメージに心が乱されることはなくなっていきます。
以前、ある知人が「子供が親を選んで生まれてくるはずがない。子供が自分で虐待する親を選ぶはずがない」
と怒っていたことがあります。
子供が親を選んで生まれてくることはスピリチュアリズムの常識なのですが、
そういうスピリチュアリズムの知識に抵抗を感じる人が、世の中にはたくさんいることは知っています。
だから、この問題は軽はずみに発言できない、誤解を与えやすいので、説明するときは慎重にならなければなりません。
レッスンだから生まれてくるのです。
レッスンだからこそ、親を選ぶのです。
そうでなかったら、誰も自分を虐待する親なんか選びません。
結局いつかは、どこかの時点で、その親を選ばなければならなかったのです。
出来事と同じく、いつかはその親をゆるせるようになること、それが目標なのです。
「ゆるす」とは、ひたすら理不尽な仕打ちに耐え抜くことではありません。
「耐える」ことはこれが現実だと信じていることになります。
現実と信じ続けていれば、そういう親を一生ゆるすことはできません。
レッスンとして肯定してみせることです。幻想ではなく真実の相手の姿を見破ることです。
相手はひどいことをする親を無意識に演じているのです。
その奥にある相手の本当の姿を見つけなくてはなりません。
『神』が創造したままの美しく純粋な真実の姿が見えるまで、私たちのレッスンは続くのです。
それが出来たとき、もうそういう両親を選ぶ必要がなくなるのです。
ようやく宿題の一つが終わるのです。
長い宿題ですね。笑
ですから、虐待されることを承知の上で生まれてくる赤ちゃんが、
どれほどの【勇気と決意】をもって生まれてくるか、あなたに想像できるでしょうか。
いつだったか、母親に虐待されたあげく、その母親に橋の欄干から落とされて亡くなった少女のことをテレビで知りました。
その子は、母親に橋から落とされる瞬間、かすかに笑って「バイバイ」と言ったそうです。
自分を殺そうとする母親に、最後に笑顔を向けて、川へ落ちていったというのです。
本当に笑顔を見せたのか、本当に「バイバイ」と言ったのか、真実はわかりません。
でも、それが真実だとしたら、この子は「ゆるせたんだな」って僕には思えます。
自分の人生の、いよいよ最後の瞬間に、
自分を殺す母親をゆるし、
短く終わる自分の人生をも、ゆるしてみせたのではないでしょうか。
自分が体験していること、自分が見ているもの、自分を殺そうとする母親のことを、
最後の瞬間、マインドの深いところで、
「これは現実じゃなくて夢なんだ」と悟ったのではないでしょうか。
その瞬間すべてをゆるせたのではないか、僕にはそう思えてしかたありません。
こういう子供は、あなた自身でもあります。
僕自身でもあります。
同じように、あなたもどこかの人生で、いろんなパターンの両親のもとに生まれているのです。
殺された少女は、もう同じような人生を経験しなくて済むのです。
難しいレッスンの一つを、
大きなレッスンをやってのけたのです。