ここからは前回のお話の注意点を書いてみようと思います。
私たちはついつい『自分が望んでいることを引き寄せるにはどうしたら良いか』と
そればかり考えてしまいます。
だから、「望んでいることだけに意識を向けて、望まぬことには意識を向けない」と教わることが多いはずです。
でも望んでいることに集中していても、何かしら望まぬことは起きてきます。
むしろどうやって望んでいることを引き寄せるのか考えるよりも、
『望んでいないことが起きたとき、自分がそれにどう反応しているのか』に注意を向けるべきかもしれません。
極端な言い方ですが、
『望んでいないこと』に対してネガティブな反応をするのをやめてポジティブな反応ができるようになれば、
必然的に自分の人生は、『自分が望んでいること』だけが残りますよね。
どう見ても自分が原因ではなく、
他人や自然現象が原因であるとしか考えられないことが起こります。
テレビのニュースに出てくる凶悪犯罪は、どう考えても自分に原因はない。
外出先で雨に濡れてしまったのは、傘を持たずに出かけた自分が悪い。
でも雨を降らしたのは自分ではない。
物理的なこと、形のある部分だけを見ると自分とは直接関わっていないことがほとんどです。
でも、この世界はあなたの肉体の外のマインドが見ている夢ですから、
テレビのニュースも、
雨も、雪も、台風も、
あなたのマインドの投影です。
それは『神』から分離したと信じて、
【分離】をテーマにしたあなたの信念の産物であり、
あなたの『神への罪悪感』を象徴したものです。
『すべては自分がつくりだしている』
そう自覚するように、そう信じようと決意する。
自分が味わう出来事は、
すべて自分がつくったと言い聞かせることを習慣にする。
自分の身に何が起きても他人のせいにしない。
ましてや『神』のせいにもしない。
自然現象のせいにもしないし、“偶然”も信じない。
最初は抵抗があるので少しずつ少しずつ無理のないペースで習慣づけるといいかもしれません。
(繰り返し言い聞かせれば信じられるほど単純ではないですが……)
ここで注意する点は、
だんだん自分がつくったと自覚し始めると、
望まぬことが起きた時に他人を責めることは減っていきますが、
代わりに、
「どうして自分はこんな出来事をつくってしまったのか……」
と自分を責めるようになってしまうことです。
相変わらず見たくないものを見ている自分。
相変わらず望まぬものを引き寄せてしまう自分。
なんだか自分がとても進歩のない愚か者のように感じてしまうのです。
練習が必要です。
私たちのマインドも練習が必要です。
マインドを変える訓練は毎日のように行う必要があります。
マインドを変えるとは、
よく『引き寄せの法則』の講師が言うような、
「望みのものを引き寄せるために観念を変えよう」
とか、
「望まぬものを引き寄せないために観念を変えよう」
とか、そういう類のものではありません。
それは結局、自分の人生に起きること、見ること聞くこと、それらの一部分だけを切り出して、
そこだけに責任を持ちましょうということです。
一部分だけを肯定し、それ以外を否定しましょうということです。
出来ない自分を責めるより、一度考えてみてほしいことがあります。
あなたにとって、それは、なぜそんなに必要なのでしょう?
あなたは、それを、なぜそんなに拒むのでしょう?
望みはあっていいのです。
望まないことがあってもいいです。
ただ、どちらも幻想です。
この世界はあなたのマインドでつくりだしている夢にすぎません。
望むことも、
望まぬことも、
どちらも“幻”にすぎないなら、
どちらも最初に重要な意味はもっていないのです。
しかし、
「どちらも幻想だから気にするな」と言われても、
「はい、そうですか」とはなりませんね。
私たちが起きた出来事を「幻想だから」と自動的に気にしなくなるようになるまでには相当な年月がかかります。
だからそこまで到達するまでは、
起きた出来事に動揺する度に、
その出来事をつくりだした自分のマインドを修正しなくてはなりません。
動揺する理由は、自我としての視点で見ているからです。
自分がつくったものすべては幻想であるがゆえに正解も不正解もない。
だから、自分がつくったものが何であれ、それを見て罪悪感は持たない。
罪悪感を感じるのはそれが不正解だと信じているからです。
起きてしまうこと、起きてくれないこと、どちらにせよそれに執着してそこから動けなくなるのは、
それが現実だと思い込んでいるからです。
現実のように感じるものすべては、特定の意味は持たずにあなたの目の前にやって来ます。
例えば夢占いや心理学者の夢分析は、
正しい解釈が初めからあるわけではありません。
夢の中で見たものの解釈は、
占い師や学者自身が「こういう解釈なら信憑性が高い」という一つの結論であり、
その解釈を聞く人にとっては「そういう解釈なら納得できる」という一つの答えです。
解釈はそれ以上もそれ以下もなく、
本当に正解かどうかは別の話です。
「今はそれで納得しましょう」というだけのことです。
意味はその都度自分自身で決めています。
だから本来、
何かが思い通りにいっても、
何かがうまくいかなくても、
どちらも正しさはないのです。
何も願うなということではありません。
でも、私たちは『本当の自分とは何か』『神とはいったい何なのか』ということを思い出すこと以外に重要なものはないのです。
私たちが欲しいものはそれだけです。
この世界で私たちが欲しいと願うものは、本当に欲しいものの代用にすぎないのです。
自分でそれに気づいていないだけなのです。
しかし、その代用品を、
『本当の自分とは何か』
『神とはいったい何なのか』
といったことを思い出すための手がかりとして上手に活用できるのなら、
あなたがこの世界にいるあいだだけ本当に価値あるものにできるでしょう。
今の自分の置かれている状況が、
自分が願っていたものと違うとします。
やりたくないことをやらなきゃいけない状況だとします。
けれど、今、そこから別のところへ行く方法が何も思いつかないなら、とりあえず今はそれをやるしかありません。
なぜなら、それはあなたの外側からやってきているわけではなく、
あなたの内側でつくられたものだからです。
「すべてはつながっている」とお話しました。
望まぬことも、望んでいることも、全部繋がりがあり、
それがどんな形のものであれ、
それを否定し続けるなら、延々とその状況に留め置かれることになります。
なぜなら、あなたが“繋がり”を否定したからです。
なぜなら、あなたが幻を現実と確定したために、あなたの目の前に固定されたのです。
投網した漁師の網に目的の魚がかかったとします。
そこでいざ網を引こうとすると網の一部が何かに引っ掛かり思うように引き揚げられないとします。
引っ掛かっている部分はほんの一部分です。
しかし、その一部分が網全体に影響します。
何故なら網のすべては繋がっているからです。
恐れを元にして、
自分の見ているものの中から何かを除外しないことです。
【何かを除外する=その部分が引っ掛かる】
網が引っ掛かってても、何かしらの魚は獲れるかもしれません。
しかし、目的の魚は網からこぼれ落ちるかもしれません。
漁がスムーズにいくのは何も引っ掛かりのない状態です。
あなたの人生も同じです。
引っ掛かりはあなた自身がつくります。
あなたの目の前にやってくるものは、
あなたがまだクリアしていないレッスンです。
レストランで、あなたのテーブルに運ばれてきた料理があなたが注文したものと違っているとします。
でも、食べてみたら案外美味しいかもしれません。
あなたがその料理が実は美味しいんだと気づくために、
あなたのマインドはその【間違った注文】をつくりだしたのかもしれません。
食べずに料理を返してもいいです。
その代わり、「この出来事をつくったのは自分なんだ」と思い出して怒るのをちょっとやめてみる。
そして笑顔でお店の人をゆるしたなら、お店は新しい料理をもってくるだけでなく、
その料理を無料にしてくれるかもしれません(笑)
レッスンの目的はすべて同じです。
幻想を見過ごすこと。
幻想を聞き流すこと。
幻想を笑い飛ばすことです。
間違った料理が届いたとき、
その店を責めるのではなく、
(店に文句を言ったらいけないという意味ではありません)
その店を選んだ自分を責めることでもなく、
【それに意味はないってことを学ぶレッスン】
と気づくことです。
レッスンのすべては
【本来の自分を思い出すためのレッスン】
です。
それは、自分の人生をどんどん軽くするための(楽にするための)プロセスなのです。