自分の人生をもっと大切に思う。
どんな人生だろうと、それぞれの人にとって、その人生、そのパターンでしか経験できないレッスンに挑戦している。
今ここでどんな生活を送っていたとしても、
今ここでしか取り組めないレッスンにチャレンジしている真っ最中です。
昔読んだ小説に、
『道を外れるとそこにまた道があった』という一節がありましたが正にその通り。
人生という道は正解と不正解があるわけではありません。
それぞれの人生はかけがえのないものです。
隣の家が豪華な夕食を食べていて、
自分は粗末な夕食だったとする。
けれど粗末であっても要は味が良ければいい。
安い食材でも美味しく作れたらそれでいい。
心から美味しいと思えたら、満腹感を得られたならそれでいい。
隣の食卓も、
自分の食卓も、
最後に美味しかったと思えたら同じこと。
メニューの問題ではない。
食材の高い安いの問題ではない。
人生の価値は見た目の問題ではない。
自分が自分の今に『これはこれで価値がある』と認めることです。
理想通りの人生なのか、
希望通りの生活か、
それは価値のある無しとは関係のないことです。
最初の理想と外れていても、それにはそれの価値があったりします。
理想に向かっている途上であっても、それにはそれの価値があるのです。
イタリアンを食べたくて店に行ったら閉店していて仕方なく隣の中華料理店に入ったとする。
希望通りにいかなかった。
だからといって隣の中華料理に価値がないということではないはずです。
食べたいものはあっていい。
それを食するために一生懸命になっていい。
だけど今食べたくないものを食べていることにも同じだけの価値はあるのです。
誤解しないでほしいのは、
食べたいものを(理想や夢と呼んでいるもの)求めちゃいけないわけではありません。
ここで言いたいことは、
理想通りの状況も、
理想と程遠い状況も、
どちらも肯定するということです。
どちらの経験にも優劣はなく、同価値があると受け入れることで、
いろいろなことがもっとスムーズに流れていきます。
そして何より自分の心が穏やかになります。
それぞれの状況の価値が本当はどんなものか、今の自分には見えていないだけ。
この宇宙には価値あるものと無価値なものの二つがあるわけではない。
今は価値あるものに見えているものと、
今は価値なきものに見えているものがあるだけです。
すべては中立で、
すべてはあらかじめ意味は持っていないのです。
他人の価値基準はどうだっていいのです。
他人はあなたと同じ人生を生きてはいないのだから。
あなたの人生の価値を見出せるのはあなたしかいません。
何を食べたとしても最後には美味しかったと言ってしまえばいいのです。
「本当はあれを食べたかったけど、でもこれはこれで美味かった」
そう言ってしまえばあなたの勝ちです。
人生、最後はそれでいいのです。