僕だって怒ることはあります。
どうしようもなくイライラすることはあります。
昔に比べると冷静さを取り戻す時間は早くはなりましたが、それでもズルズルと引きずってしまう時はあります。
「まだこういう感情が湧いてくるんだ。こんな些細な理由で?」
と自分で驚いたりします。
毎日毎日いろいろと受け入れて、
いろいろと赦して、
それでもこんなことでイラッとなるんだ、と。
そしてちょっとがっかりします(笑)
スピリチュアルな学びを始めた頃、
怒りを感じる自分に罪悪感を感じ、
怒りの感情をコントロールできない自分を恥じたりしていました。
怒る理由を、相手のせいや環境のせいにすることをだんだん躊躇うようになるわけです。
誰でもそうですが、
怒りを相手にぶつけても、
自分自身にぶつけても、
最終的にスッキリすることはありません。
誰が見ても相手が悪い状況であっても、怒ったあとは何となく後味が悪いものです。
相手に怒っていると同時に、
いつまでも怒り続けている自分に対して怒っているのでしょう。
怒る自分に不快感を抱く理由はなんでしょう?
きっと、
「霊的進化した人間は、いつも穏やかでいて、いつも微笑みを絶やさず、決して怒りをぶちまけたりしないはず」
という固定観念をもっているからかもしれません。
いわゆる
「スピリチュアルな善人と思われたい」
という願望です。
それは違う言い方をすると、
「スピリチュアルな学びをしていながら怒りをコントロールできないのか、と思われたら嫌だ」
という恐れであり、自我です。
だから怒りが湧き起こったとき、
「自分は怒ってなんかいない」
「これは怒りとは違うんだ」
ということにして怒りの感情を誤魔化してしまうことがあります。
本当に怒っていないなら不快感は残らないでしょう。
この時点では、
怒ることそのものを良いか悪いか、
何に対して怒ることは正しくて、
何に怒るのは間違いなのか、
そんな判断をしてしまっている自分がいるわけです。
怒りは非常に強力なパワーです。
だからそれを表に出さずに抑え込んでしまうと、
行き場を失ったパワーは自分自身を攻撃して病気を引き起こしたりします。
かといって怒りに身を任せ誰かを攻撃(あるいは反撃)してしまえば、
エネルギーは同じ性質のエネルギーを引きつけるだけなので、
攻撃した相手、
もしくは別の誰かから再び自分が攻撃されるという悪循環が始まります。
だからスピリチュアルな学びを進めると、
最初は怒りを消化できず何となく身動きできないような状態に陥るわけです。
スピリチュアルな学びを進めると、
怒りを引き起こす原因は自分の中にある特定の観念にあると気づきます。
そして積極的に自分の観念、自分の見方を変えようと努めます。
観念に気づいて、それだけで怒りを手放せることはあります。
しかし、自分の特定の観念が怒りの原因とわかっても、それでも簡単に怒りの炎は鎮まってくれないことが多いです。
「本当は誰も悪くない」
「これは災難ではなく自分にとってのレッスンなんだ」
「全ては一つ 相手と自分は一つ だから怒っても仕方ない」
そう繰り返し自分に言い聞かせてみるものの、怒りは簡単に手放せません。
手放せないでいるうちは、再び同じようなことが起き、再び同じような反応をしてしまう可能性が高いでしょう。
私たちが誰かのことを、
または何かの出来事を、
怒ることなく自動的にゆるせるようになるまでは長い長い年月がかかります。
そんなふうになれるまでは、僕はとりあえず怒りを感じたときにこんなふうにすることにしました。
【怒っている自分をゆるすには】
まず最初にすることは、怒りを感じた自分を恥じないことです。
怒りを起こさせるのは自我(エゴ)ですが、
怒りを持つことに罪悪感を感じさせるのもやはり自我なのです。
だから怒っている自分に罪悪感は持たない。
怒っているその時の自分をとりあえず肯定するのです。
ここで注意が必要なのは、
怒っている自分の感情、
自分のエネルギーを肯定するってことであり、
怒っている理由を肯定するってことじゃありません。
「今の状況が悪い」
「こうこうこういう理由でアイツが悪い」
「だから怒るのが当然。自分は正しい」
ではなく。
誰が正しくて誰が間違いなのか、
どんな理由なら怒ってもいいとか、
そんなことを基準にすると答えのない袋小路に入り込んでしまいます。
そういう正解のない話はこの際どうでもよいです。
何かの怒りが湧き起こったとき、
これはチャンスなんだと思うのです。
怒りというパワフルなエネルギーを上手く利用してやろうじゃないかと考えるのです。
良くも悪くも怒りは強力なパワーです。
怒りを感じている自分を眺めて、
『自分には怒るだけのパワーがあるんだな。凄いじゃないか、今の自分』
とまずは自分に向かって言ってあげるのです。
怒りとは無縁に見えるスピリチュアルマスターたちは、
怒りの感情を否定したり封じこめたりしてきたのではなく、
怒りのパワーを別のパワーに変換するコツを身につけたのだと思います。
訓練を重ねて、
怒りのエネルギーを自分や他人に向けるのではなく、うまく方向転換したんじゃないか、まずはそこから始めてみたのではないかと僕は考えたのです。
怒りには、
正当な怒りと間違った怒りの2種類があるわけではありません。
理由は何であれ怒りは怒りです。
他人が悪かろうが、自分が悪かろうが、怒りに種類はありません。
相手が悪い、出来事が悪い、と信じ続けているとエネルギーは攻撃的なままです。
そのままでは変換はできません。
怒りは、他人や出来事に向けられているようで本当は自分自身に向けられています。
特定の誰かや、
特定の状況に翻弄されてしまう自分自身に苛立っていることがほとんどです。
「今の自分にはこの状況、この関係性を変える力はない」
「これといって為す術がない」
自分は無力だという観念です。
自分には変わる力がないと感じると、
自分の外側に変わってもらうしかないってことになります。
つまり誰かを責め続け、
自分ではなく相手のほうに変わってもらうこと、
怒りを感じさせた状況のほうから変わってくれるのを待ってしまう状態になります。
自分には変える力はない。
ただの無力感なら鬱状態になってしまい何かに怒る気力すらなくなるかもしれません。
しかし、怒りを感じるときは、
「自分には力がない。けど何とかしたい! 変えたい!」
と無力さを感じながらも、
変わることは諦めてはいない状態です。
でも、そこからどうして良いのかわからない。
葛藤してしまう。
悶々としてしまう。
それが怒りのエネルギー。
それが怒りのパワー。
悲しみのエネルギーと違うのは、
悲しみは自分を内向きにして自らを受動的にするのに対して、
怒りのエネルギーは非常にパワフルに自らを能動的にさせます。
本気で怒っているとき、
私たちは何かしないではいられません。
じっとしてなんかいられません。
ウズウズしてきて行動的にならざるを得ません。
思い出してみてください。
これまでの人生で、自分が本気で怒った時のことを。
思い出してみてください。
誰かが本気で怒っていた時のことを。
良くも悪くも強力なエネルギーを感じませんでしたか?
【怒りをきっかけに変化を起こす】
怒りは何かを変える、
行動を起こすきっかけになったりします。
しかし、怒りは自分の外側を変える力はありません。
怒りは強力なエナジーではありますが、
一時的な力であり、
継続するのが難しいエナジーです。
よく政治運動や社会運動などで、
大衆の怒りを焚きつけて世の中を変えようと試みることがありますがあまり上手くいきません。
一時的に成功することはありますが継続させる力はないのです。
なぜなら怒りは、
自分自身も周囲の人間もとても疲れさせるからです。
怒りのエネルギーは、
破壊的で、ただただ消耗させるエネルギーなのです。
だから、怒りのエネルギーは自分の外側を変えるために使うのではなく、
自分の心や振る舞いを変えるために使うのです。
他人を非難したり自分を責めるためではなく、
本当に今自分がやりたいこと、
本当になりたいと思っていることをするために怒りのエネルギーを利用するのです。
エネルギーを向ける方向を変えればいいのです。
攻撃に使わずに、
本当になりたい自分になるための起爆剤として使おうとすれば、
怒りのエネルギーは『情熱』というエネルギーに変換されるのです。
破壊的で攻撃的だったエネルギーは、
夢や喜びといった肯定的な愛のエネルギーに変化するのです。
怒りを、
本当は今自分は何をしたいのか、
どうなりたいのか、
自分の本当の気持ちに従うために行動するきっかけに変えるのです。
【怒り=悪 とは限りません】
時には怒りを言葉や行動で誰かにぶつけてもいいと思います。
怒りっぽい性格の人でもこの人の怒り方は問題ないなと思える人がいます。
そういう人がどういう怒り方をしているかというと表現が難しいのですが、
【カラッとした怒り方】 とでもいうのでしょうか。
短時間にワッと怒って、後は一切引きずらない。
カラッとしている。
ワッと怒って、
その後は自分を責めることもしないし、
相手を責め続けたりもしない。
ワッと怒って、ケロッと忘れる。
感情表現が豊かというか、子供のように素直なんですね、きっと。
ササッと感情を手放すのが上手いんですね。
こういう人の怒りは一種のスポーツのような、自己表現の一種といっていいのかもしれません。
周りの人は慣れるまで大変かもしれませんが(笑)
でもこういう怒り方ができるなら、どうぞ遠慮なく怒ってみてください。
怒りを溜め込んで病気になるよりはずっと健康的だと思います。