【どうやって執着を剥がしていくか】
あなたが執着しているものが何であれ、
それが別の何かの象徴であることに気づく必要があります。
この世界にあるものすべてが象徴です。
なぜなら、この世界そのものが私たちのマインドの中で神からの分離を信じた部分(フィジカルマインド)が投影している夢だからです。
夢の中に出てくるものすべてが思いの象徴で構成されています。
執着してしまうものの多くは、
自分の中にはないと信じているものであり、
自分にとってそれは絶対必要だと信じているものです。
そして今はそれに代わるものはないだろうと信じています。
例えばドラッグ中毒について考察するとします。
ドラッグは何を象徴しているのでしょうか。
象徴と向き合う際に気をつけることは、
自我の視点ではなく、
本来の自分の視点、ハイヤーセルフ(聖霊)の視点で見つめることです。
自我としての視点で中毒状態を見た場合、
ドラッグは一時的でも自分の嫌なこと、怖れていることを忘れさせてくれる便利な代物です。
その忘れたいものとは本人にとって罪悪の象徴なのかもしれません。
ドラッグ中毒はご承知の通り、自らの健康を損なう確率は高いものであり、法的にも違法です。
(合法の国もありますが)
本人はもちろん、身近な人たちの生活も狂わせてしまうことが常です。
自分にとっても、身近な人にとっても、
破壊的な結果になると分かっていてドラッグをやめないのは、自己破壊願望です。
無意識に自分を攻撃して、最終的に自らを抹殺したいのです。
それが罪悪感です。
それが自我です。
マインドに潜んでいる罪悪感が原因です。
強烈な自己否定です。
自己否定が強いほど(罪悪感が強いほど)より危険なドラッグに手を出していくのです。
そして自我の視点で見れば、
「中毒者は意志が弱いために中毒から抜け出せない落伍者である」と結論づけるかもしれません。
しかし、本来の自分の視点、聖霊の視点でドラッグ中毒を解釈した場合どうでしょうか。
ドラッグを使いたがる理由は、
本来の自分、神と共にいる自分を、
ほんの一瞬でも感じてみたいという想念が原因であり、
神の子の藁にもすがる思いとして解釈できるかもしれません。
何かを忘れるためにドラッグを使ってしまうのではなく、
本当の自分とは何なのか、
本当の愛とは何なのか、
神とは何なのか、
それを使っている間だけは神と繋がれて、
その間だけは神に創られたままの自分を思い出せるかもしれない。
ドラッグを使うことで、無意識にそれを試みているという見方もできるのです。
中毒者にとってドラッグは、
自分が知っている自己ではなく、
自分が忘れている自己に繋がれる象徴なのかもしれません。
ドラッグ中毒そのものに意味はありません。
最初から肯定的な意味も否定的な意味も持ってはいません。
罪は最初からあるのではなく、
私たちが罪と信じたものが罪となるだけです。
神はいかなる神の子も罰することはありません。
罪は私たちの誤った信念にすぎないのです。
ただ、本当の自分になるために、
神との繋がりを感じるために、
そんな方法を試みたとしてもその願いは叶わないでしょう。
神との繋がりを感じるためには、『神からの分離』という誤った信念を修正しなくてはなりません。
幻想を取り消すためには、心で選び直すしかありません。
幻想を、幻想で取り消すことはできません。
心で実相を選ばなくては幻想は取り消せません。
そして先にも書いたようにドラッグは肉体に影響し、社会生活を狂わせてしまうわけですからそのままでいいことにもなりません。
まずは、自分が捨てたくて捨てられないものが何であれ、執着している自分のことをまるで他人事のように眺めてみることです。
何に執着しているのか、
その執着しているものは何を象徴しているのか、
自分のことを野生動物を観察するかのように一定の距離を置いて「ふ~ん」と眺めてみる。
この時、決して良いとか悪いとか判断しないことです。
いつだってマインドに潜む自我は正誤の判断をせよと急き立ててきます。
ただただ心静かに、
何一つ自己批判をせず、眺めるだけに留めておくのです。
しかし、自分自身を客観的に観察することはなかなか難しいですね。
だからいちばん効果的な方法は、自分と同じものに執着している人を眺めてみることです。
自分の服装をチェックするためには鏡が必要ですね。
自分を見つめるために、自分とよく似た人を観察することから始めるしかないのです。
「この人が本当に欲しがっているものは何だろう?」と。
その人がしがみついているものは人に見えて人ではありません。
その人がしがみついているものはモノに見えてモノではありません。
それはシンボルです。
それはイメージです。
本当に欲しているものは、
その向こう側に隠れています。
身近に居なかったら、映画や小説の登場人物でもいいです。
しかし、その執着を手放すことが自分のレッスンだった場合、自分と同じものに執着している人を自然に引き寄せると思います。
各人のレッスンに必要な教材は、常に先回りして用意されているからです。
最初は他人事でありながらなかなか客観視することはできません。
なぜなら相手への軽蔑心や嫌悪感が湧いてくるからです。
例えば、電車で痴漢を捕まえた人が実はその人自身も痴漢をしたことがあるという話は珍しくありません。
犯罪を憎む正義感の強い警官が、過去世では犯罪者だったという話もよくあることです。
自分の中の憎むべき部分を他人の中に見つけて憎むのです。
「見たくない」と思っている自分の中の何かしらを見せられ嫌悪するのです。
アルコール依存症の人が、同じアルコール依存症の人を好きになるのは難しいでしょう。
しかし、依存症を克服しようと努力している相手なら好きになれるかもしれません。
自分が見たくないと思っている自分の姿を見せられることを私たちは何よりも恐れています。
私たちは常に自分を見るように他人を見て、他人を見るように自分を見ているのです。
自分のような相手を、
相手のしていることをまずは否定することなく見つめてみる。
そして、執着している相手のことを全く違う解釈をしてみる。
本当にそれは必要なのか。
本当にその方法しかないのか。
自分一人で、その答えを知ることは無理です。
自我を通して見ている私たちには分かるわけはないのです。
だから完全に自我の外側にいる存在に、
ハイヤーセルフ(聖霊)に繋がって答えを求めるしかないのです。
正しい答えを受け入れられたとき、自分自身の執着は薄れていきます。
いきなりパッと捨てられる場合もありますが、大抵それは時間をかけて行われます。
あなたに与えられる正しい答えは、あなたに苦痛や葛藤をもたらすことはありません。
苦痛や葛藤を終わらせるための幸せの答えであり、
神から与えられた力強さを思い起こさせる答えです。
自分と自分によく似た人は一つです。
すべては一つしかないのです。
あなたのレッスンの大切なパートナーです。