同じ志を持つ者同士が批判しあうことはコースの学習者同士に限ったものではありませんね。
どんなジャンルでもありがちなことではあります。
しかしコースの学習者も、他者を赦すことに関しては人一倍注意しているはずですが、それでもそうなってしまうことがあります。
テキストを読み、
誰か教師の解説を読み、
コースの概要を掴めるようになってくると、
これで理解出来たと勘違いしやすい。
理解とは実践そのものです。
自動車教習所の座学で車の操作方法やメカニズムを習っただけでは運転はできない。
習いました。
理解できました。
「こうやったらエンジンがかかるんですね。こうしたら加速するんですね。なるほど!」
でもこの時点で実際に運転することはできません。
実際にやってみると簡単にはいきませんね。
これは理解していないのと同じです。
練習しなくてはなりません。
実際に路上に出て練習を重ねることで運転のコツを掴んでいきます。
コースの智識も同様です。
教わった一つ一つを自分の人生体験を通して実践出来たとき、
ようやく「こういう意味だったのか……」と静かに深い感動をおぼえるのです。
経験を通して、実感できて、一つずつ理解する。
スピリチュアルな学びは自動車免許のようにわかりやすい採点基準はありません。
コースの学習者は特にそうかもしれません。
コースを学習して間もない頃はそうでもありませんが、テキストやワークを一通りやっていくと何だか他の学習者のことが気になり始めます。
「他の人はどれだけ理解できているんだろう?」
「他の学習者は自分よりもっと先に行っているんじゃないか……」
僕にもそんな経験があります。
今だってふとそんなことを思うことはあります。
コースは自学自習が基本。
本来、教室で学ぶものではありません。
しかし、孤独に陥りがちな学習の補助的な役割として学習会などがあります。
そういう場で他の学習者の経験を聞いたりできることは慰めや励みになったりしますね。
ただコースほど自分がどれくらい理解を深めたのか、どれほど進歩しているのか、自分自身で判断しにくいものはないように思います。
一般的にスピリチュアルな学びで最も人気があるのは『引き寄せの法則』です。
たくさんの講座があり、たくさんの教師がいます。
豊かさを引き寄せましょう。
その豊かさとはお金であり、理想の恋愛相手であり、地位や名誉だったり、ほとんどが物質的豊かさを引き寄せることが主目的だったりします。
(それが良い悪いではなく)
引き寄せの法則を理解できたかどうか判断するのは簡単です。
法則を実践して欲しいものを引き寄せられたかどうか、結果は一目瞭然です。
サイキック能力を高めることを霊的進歩の基準にしている場合は、
サイキックトレーニングをくり返し、霊視能力などが高まるか高まらないかを判断基準にしますからこれもわかりやすいですね。
非物質世界と繋がり、「あれが見えるようになった、こんなものが聞こえるようになった 」など。
あるいは物理的にこの世界でどう行動しているかを霊的進歩の基準にしている場合もあります(敬虔なクリスチャンやイスラム教徒に多いですが)。
自分がどれだけ利他的に行動しているか、
どれだけ他者や社会に物理的に奉仕できているか(例えばボランティア活動)などを自分の霊的成長のバロメーターにしていたりします。
奇跡のコース(奇跡講座)の場合、そういうわかりやすい基準はないですね。
コースでの学びはあくまでも自分の心を変えることです。
その結果、自分が見ているものが変わることもあるし、変わらないこともあるのですが、物理的に変化するかどうかはコースの場合、最優先ではないわけです。
物理的にどう行動したらいいのかという規範はコースにはありません。
あくまでも自分で自分の心の中を絶えずチェックして、他人や出来事に対して自分の心がどう反応しているかを見て、自我として反応していると感じれば聖霊に委ねて自分の観念を変えることを主目的にしています。
誰かのことを赦すのも、
何かの出来事を赦すのも、
それを本当に赦せたかどうかは自分にしかわからない。
自分でもわからない、気づいていないことも多い。
とっくに赦せたと思ったものが何かをきっかけにふっと浮かび上がってきて まだ赦せてなかったんだと気づく。
大学受験や資格の学習はわかりやすい。
合格か不合格かはっきりする。
点数で分かる。
コースの理解度ほど勘違いしやすいものはないかもしれません。
暗記すればいいわけでもない。
一読してもほとんどわからない。
テキスト、ワーク、マニュアルと一通りやればある程度は理解できた気がする、
でもピンと来ないものが多々ある。
参考書というべきもの、コースの教師と呼ばれる人たちの解説を読んで、
「ああ、なるほど」 と思う。
この時点で気をつけなくてはならないのは、
テキストが理解しにくいから、そこからは解説書を中心に学習し、テキストやワークから距離を置いてしまうこと。
しかし、くり返し読めば必ず学習が進むというわけではないので、何回読み返したのか、その回数を自慢しても仕方ありません(一度で理解できる人もいませんが)
ワークブックの学習は、前半は座学で、後半は座学で学んだことを日常生活で実践していくことで初めて理解できるよう意図されて構築されています。
だから何回読もうが、
優秀な教師の解説を聞こうが、
自分で実践しないことには学習は進まないのです。
テキストやワークでわからなくなったとき、
あるいは実生活でどう解決してよいかわからなくなったとき、教師の解説を読んでもいいのですが、
時には解説を読まずとも聖霊に尋ねたらわかることも多いでしょう。
解説を丸暗記することではなく、それを実践出来ているかどうか……
実践出来ているなら、その項目については教師の誰かの言葉を引用しなくても自分の言葉で語ることができます。
自分の経験を通した言葉として。
不安になると他の学習者のあら探しをしたくなります。
不安になると他の学習者が優秀に思えてきます。
だからあらを探したくなってくる。
そして何かそれらしきものを見つけるとホッとする。
ここで自分が自我に従っていることに気がつかないと、実際に相手に言ってあげなきゃいけないと思い始める。
「これは利己的な行動ではない」
「なぜなら相手に指摘してあげるのは相手のためになるから」
「これは利他的な行動なんだ」
そう自分を納得させる。
指摘して反論されるのは怖いから有名な教師の名前を出す。
自分の言葉ではなく、マスターと呼ばれる人の代理で言っていることにする。
「これは私の考えではなく、あの有名な◯◯が言っていること。だからあなたは間違っているんですよ」
しかし、真にコースの教師と呼ばれる人なら他の学習者を正すことにエネルギーは注がないでしょう。
コースの学びは進歩の基準がはっきりしないから、自分の今の立ち位置がどこにあるのかわかりません。
確実に進歩はしていると思うが、それほど変わってない気もしてくる。
僕だって、自分は進歩したのか、同じところをぐるぐる回っているだけなのか、ふと不安になることがあります。
その時、何かと自分を比較することで疑問を解消しようと考えてしまうのですが、
何かと比較したがるのは自我そのものだから厄介です。
他の学習者と比較してホッとしたり、
他の学習者と比較して不安になったり、
そうやって自分と他の学習者との違いを気にすることを正当化しているうちに、
『自分と他の学習者が分離している』という信念を強めていってしまうのです。
結局、自分は進歩しているのか、していないのか、到底自分にはわかりようがないので考えても仕方ないのです。
自分のこともわからないのに、兄弟がどれだけ進歩したかなんて尚更わかりようがありません。
ただ、ただ、前に進もうとする意欲。
私たちに必要なものは判断ではなく、“意欲”ただそれだけあればいいのです。
それしかないのです。