すべてが間違い すべてが正しい


 

 

真理は一つです。

 

真理は抽象概念です。

 

 

でもその真理を受け取る個人個人に特有のパーソナリティがあり、

 

受け取った真理をどう解釈するのかも個々のパーソナリティが影響します。

 

解釈したものを他者に説明するときも個々のパーソナリティが色濃く反映するでしょう。

 

 

真理は一つしかありません。

 

しかし、パーソナリティは星の数だけあります。

 

 

スピリチュアルな学びにおいて、

 

一つの本でも、一つの宗教でも、

 

本当はそれに対するアプローチ(教義に対する解釈や実践法)は無数にあるのかもしれません。

 

 

 

しかし、自分がこれまで学んできた方法や(本、宗教、スピリチュアリズム、宇宙存在、etc…)自分が信じることが出来た説明、それらに強い影響を受ければ受けるほど、他のアプローチを拒絶してしまうことがあります。

 

 

 

ちょっと数学にたとえてみます。

(僕は数学苦手ですが。笑)

 

 

例えば数学で塾の講師に、

 

「 これを学校の先生に教わったやり方とは違う証明方法でやってみて」と言われたらどうでしょうか。

 

その問題の本質をきちんと理解していれば全く違う証明法を思いつくことは可能でしょう。

 

本質さえしっかり掴んでいれば、

 

「こっちの方法もありだな 」

 

「 こっちのやり方もあり」

 

と分かってくるはずです。

 

 

でも問題の本質を理解していないと、自分が習っている方法以外は間違いのように感じてしまいますし、それ以外を思いつくのは難しいかもしれません。

 

 

スピリチュアルな学びも同様です。

 

一つの真理があったとして、それをちゃんと理解していたならば、

 

それを違う角度から解釈したり、

 

それを違った表現で説明したりすることも可能になるかもしれません。

 

 

宗教で例えるなら、

 

キリスト教と仏教、キリスト教とイスラム教、イスラム教と仏教……

 

自分が真理に近づいていくごとに、それぞれの宗教の中に多くの共通点を発見出来ると思います。

 

 

 

なぜなら真理は最初から一つしかないからです。

 

 

真理はとても抽象的でシンプルです。

しかし実践することは容易ではありません。

 

 

宗教という入口はとっても複雑にできていますが、だんだんと核心に近づくにつれ余計なものが削ぎ落とされていくはずです。

 

逆に学びを深めるごとに複雑さを増していくのだとすれば、それは真理からどんどん遠ざかっているにちがいありません。

 

真理に近づくごとに、教義の側からではなく真理の側から見られるようになっていきます。

 

 

本質を理解出来ていないと、

 

言葉の表面上を行ったり来たりするだけで、

 

「あっ、これも違う」「あっ、これも間違い」と相違点ばかりに注意が向いてしまいます。

 

 

数学では正解か不正解かすぐに結果が出ることが多いですが、スピリチュアルな学びの答えはすぐには出てくれません。

 

 

スピリチュアルな学びの答え(学んだ結果)は、

 

神の元に帰れるかどうか、

 

分離している夢から完全に醒めるかどうか、

 

究極的にはそれが唯一の答えですので、

 

多くの人にとってその答えを見るのは(僕も含めて)ずっとずっと先になるでしょう。

 

 

 

 

自分のサイトについて、あらためてハイヤーセルフ(聖霊)にこんな質問をしてみました。

 

「このサイトに書いている自分の解釈は間違っていますか?」と。

 

 

 

答えは「Yes」です。

 

ショックでした。

 

 

 

「じゃあ具体的にどこがどう間違っているのかわからない」と言ったら、

 

「解釈は正しい」と返ってきました。

 

 

 

どっちなんでしょう?笑

 

混乱します。

 

 

 

間違いなら全部書き直すか、サイトを閉じなくてはなりません。

 

少し冷静になるために時間を置きました。

 

冷静になったら、ハイヤーセルフからこんな思念が返ってきました。

 

それを簡単に説明してみます。

 

 

 

 

実在の世界、神の世界、神の真理、それらは抽象の世界。

抽象的世界、抽象的概念を具象的に説明することはできない。

 

言葉や記号というアイテムは【自我(エゴ)】がつくったもの。

神は言葉も記号も必要としない。

よって神は言葉も記号もつくってはいない。

(これは『奇跡のコース』でも同様なことが書かれています)

 

【自我(エゴ)】がつくりだしたもの(言葉)を使って、

神の世界である実相(真理)を正確に説明することは極めて困難。

 

三次元に存在しないものを三次元にあるもので例えたり、

複層的なものを平面的に簡略化して説明したとして、

それが正しい説明かといったら決して正しくはない。

 

そういう意味では全部間違っている。

 

正しいものがあるかというと厳密には一つもない。

 

しかし、この世界ではこの世界にあるものを使って説明せざるを得ない。

 

言葉や図を使うことがこの世界のコミュニケーション手段なのだから、説明を完璧に行えぬとしても正しいといえる。

 

 

 

右手と左手は同じだろうか。

 

同じ人間の肉体に付いているなら同じという言い方もできる。

 

でも右手と左手は全く同じものかといったらそうではない。

 

「同じ」という言い方で正しいかもしれない。

 

でも「違う」と言っても正しいかもしれない。

 

 

 

正確な説明、唯一無二の完全な説明なんてできない。

 

完璧な教師がいたとしても、

言葉を使って完璧な説明をすることはできない。

 

 

 

というような答えでした。。。

 

 

結局、僕が出した結論としては、

 

【今ここの自分】にできることは、肉体が持つ言葉や絵といったコミュニケーションアイテムしかないのだから、それらを精一杯工夫して出来る限りのことをやってみるしかない……です。

 

もちろん、【今ここの自分】が理解できている範囲内、許容できているところまでしかできませんが。。。

 

 

 

 

若い頃、般若心経をチラッと読んでみましたがよくわかりませんでした。

 

でも最近になって読み直してみたら、『奇跡のコース』と同じようなことがたくさん書かれていて苦笑いしてしまいました。

 

僕が般若心経を最初に読んだ当時、もっと理解力があったなら、仏教に入信して『奇跡のコース』を読むことはなかったかも?しれません。

 

 

 

スピリチュアルな学びは入口は無数にあります。

 

でも出口はたった一つです。

 

入口の数だけ出口があるわけじゃありません。

 

方法の数だけ違ったゴールがあるわけじゃありません。

 

個々に違いが出るのは、出口に着くのが早いか遅いか、それだけです。

 

 

 

 

選択の数だけ様々な並行生があります。

 

その並行生の数だけ、いろいろなあなたがいます。

 

全宇宙のすべての神の子が『神』というゴールにたどり着いた未来はすでにあります。

 

誰かがたどり着かなかった未来は存在しません。

 

もしも神の子の誰かが永遠にたどり着けない未来が一つでもあるなら、完全な神は神の子の創造に失敗したことになってしまいます。

 

でも完全な神は失敗はしません。

 

 

 

分離の夢を終わらせて本当の自分を思いだすために無数のストーリー(並行生)があります。

 

数ある並行生の違いは、ゴールに早く着くか、遅く着くか、それだけの違いです。

 

時間は永遠ではありません。

 

神は時間を創造してはいないからです。

 

 

 

 

あなたが本当の自分に目覚めた未来はすでに存在しているのです。